時代の風
学術会議任命拒否 民主主義の一丁目一番地 長谷川眞理子・総合研究大学院大学長
毎日新聞2020年11月1日 東京朝刊
日本学術会議が推薦した会員候補者105人のうち6人が任命されなかった.
私が一番気に入らないのは,理由の説明がないことである.「推薦された人を全員任命するというものではない」「任命するのは首相である」というのは,法律上そうであるかもしれない.
しかし,これまでの学術会議法の解釈はそうではなかったと思うので,なぜ変えたのか説明が必要だ.そして,特定の6人を任命しなかった理由を説明すべきである.そうしないと,この国の政治の体制は,国民からも海外からも信用されなくなるだろうに.
「総合的,俯瞰(ふかん)的な活動を確保するため」というのでは,なぜ特定の6人が任命されなかったのかはわからない.
しかし,ちまたでうわさされているように,現政府の考え方と異なる意見を表明している人たちだということが任命拒否の理由なのであれば,これは,学問の自由というよりも先に,民主主義の根幹に関わる問題だ.
その後,日本学術会議という組織そのものの問題点などが指摘され,議論が行われているが,それと,今回の任命拒否とは問題が別だ.
イソップ物語のキツネが,手に入れられなかったブドウを「あれは酸っぱいからそもそも欲しくなかったんだ」と自分に言い聞かせるのと同じ理屈である.
それにしても,異なる意見を持つ人たちを排除しようとしているのだとすれば,なぜ,ダイバーシティーとインクルージョンという理念が掲げられるのか,どうしたらイノベーション創出ができるのか,理解されているのだろうか?
ダイバーシティーとインクルージョンとは,組織や会議体の中に多様な人々が含まれ,異なる意見を戦わせることで,なるべく多くの人々が納得する答えを見いだそうとすることだ.
国籍や性別,年齢,性的指向,特定の病気や障害のあるなしなど,世の中にはいろいろ異なる人々が暮らしている.その人たちは,それぞれ異なる状況に置かれているので,同じ事柄についても意見も感想も異なる.
だから,なるべく多様な人々の意見を聞き,最大公約数を見つけるようにしようというのが,ダイバーシティーとインクルージョンの考えだ.
たとえ国籍や性別が同じだとしても,同じ意見を持つとは限らない.個人の考えていることはそれぞれ違う.意見の異なる人たちが集まれば,話は複雑になるし,結論に至るまでの労力は大きくなる.
ダイバーシティーとインクルージョンには,それなりのコストがかかる.それでも,意見も聞かれず,顧みられることもない,という人々をなるべく少なくするためには,そのようなコストを負うべきだ,と考えるからダイバーシティーとインクルージョンが大切なのだ.
意見が異なる人は排除しようというのは,正反対の考えである.
イノベーション創出も,みんなが同じことを考えているのでは生まれてこない.
科学や技術の発展は,これまでの常識を疑い,問題に対して異なるアプローチで挑戦し,異なる仮説を考える人々によって成されるのである.つまり,懐疑主義と批判精神である.
学者とは,懐疑主義と批判精神が性格の核心にないとやっていけない職業だ.
それらなしに,唯々諾々とこれまでの研究結果を受け入れ,それらを継承するだけで学者を続けていくこともできなくはないが,そういう学者は,学者仲間からは評価されない.
人権を大切にする法律も奴隷制の廃止も,女性参政権も,進化の理論も,量子力学も,それらを認めない既存の勢力と戦い,決して議論を諦めない人々によって築かれてきた.
そういう面倒な議論をしないことには世の中の仕組みも科学技術も,発展しないのである.
議論を戦わせる,異なる意見がぶつかり合うという事態は本当に疲れる.
自分の意見に固執して相手を言い負かすことが議論の目的ではない.本当に何が良いのかを吟味し,多くの意見を改訂していく技がいる.精神的にも体力的にもタフでないとやっていけない.
そのタフさが,どうも日本の文化には十分に備わっていないような気がする.小さな子どもの時から,そういう練習の場が少ないのだ.
単なる合議主義ではなくて民主主義になるには,自由に議論を戦わせ,互いの立場を尊重するのが,一丁目一番地である.
本音のコラム
学術会議会員の選考権 前川喜平
東京新聞 2020年11月1日 朝刊
なぜ六人の会員予定者の任命をしなかったのか.管首相の説明が次々に変遷していて面白い.
十月二日に官邸で発した言葉は「法に基づいて適切に対応した結果」だった.
五日のインタビューでは「総合的俯瞰(ふかん)的活動を確保する観点からの判断」と説明.
九日には「広い視野に立ってバランスの取れた行動を行(う)---べきことを念頭に判断した」と言った.
二十六日のNHK番組では「民間出身者,若手研究者,地方の会員も選任されること多様性が大事」「出身大学が限られている」などと述べ,二十八・二十九日の衆院本会議でも「多様性が大事だということを念頭に私が判断した」と答弁した.
二十九日に学術会議が,関東の会員比率が低下していることや女性比率が向上していることを明らかにすると,管首相は三十日の参院本会議で「『旧帝国大学』に所属する会員が45%」などと「偏り」を説明してみせた.
しかし,管首相が「会員に偏りがある」「多様性が大事だ」とどれだけ言っても,首相に選考権はない.
優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員候補者を選考するのは学術会議だ.選考の際には多様性も考慮するだろうが,その権限は専ら学術会議にある.
選考権と任命権は別の権限だ.
選考権のない首相には,会員の選考について何らの発言権もないのである.
(現代教育行政研究会代表)
本音のコラム
二冊の本 斎藤美奈子
東京新聞 2020年10月28日 朝刊
文書管理の重要性を訴える部分が削除されていたことで話題になった菅義偉『政治家の覚悟』(文春新書).
改ざん前の本は二〇一二年三月刊.出版元は文藝春秋企画出版だから,いわゆる自費出版本である.当時は民主党政権の時代.このころの管氏は「本を出すなら自費でどうぞ」な政治家だったのだろう.
それを首相になった途端に改ざんするなんてね.
リーダーはメディアに対してどのように対応すべきか.ある本にこんなことが書かれていた.
「答えたくない質問には答えなくていい」「未来に関する仮定の質問には答えないこと」「賛成できない前提を含む質問には答えないこと」
出典はコリン・パウエル『リーダーを目指す人の心得』(井口耕二訳・飛鳥新社・二〇一七年).管氏の愛読書として有名になった本だ.
管氏が参考にしたかもしれない箇所はほかにもある.
「罠(わな)にはまったと思ったら,あいまいなことばをもぐもぐつぶやくこと」
「取材は30分で十分である.これ以上長くなると,自分の言葉にひっかかりはじめる」
パウエル氏はしかし,この本でイラク戦争の際に国連で行った自らの演説を米国史上最悪クラスの失敗だったと認め,イラクに大量破壊兵器がないとわかっていたら戦争はしなかったと述べている.
過去の失敗を隠すか認めるか.
その差は大きい.
(文芸評論家)
毎日新聞2020年11月1日 東京朝刊
東京新聞 2020年11月1日 朝刊
東京新聞 2020年10月28日 朝刊