感情の危険な独り歩き 内山節
東京新聞 時代を読む
2020年2月9日 朝刊
物事を判断するとき,私たちは感情でするときと,知性で判断するときとがある.
たとえば新型肺炎ウィルスのニュースをみて,とりあえず怖いと感じるのは感情による判断だし,様々な情報を集めてみると,それほどあわてる必要はないかもしれないと思いはじめるのは,知性による判断だ.
人間たちは,感情と知性によるふたつの判断のバランスをとりながら,これまで暮らしてきたといってもよいだろう.
近代的な社会がつくられたとき,この社会は感情をそのまま表に出すのではなく,その感情を知性で再検証する態度を人々に求めた.感情のままに動くのは恥ずかしいことであり,その感情が妥当なものであるかどうかを検証する知性を,大事にしようとしたのである.
だが最近では,この精神的態度は崩れてきているように感じる.感情的な判断をそのまま発信することが,インターネット上では可能になっている.
そればかりか,今日の政治の世界では,国民感情をあおりながら,自分たちへの支持を集めようとする手法が広がっている.
対立する政治勢力を感情的に批判しながら,感情的多数派を形成しようとする政治が,現在では世界を席巻しているのである.
アメリカのトランプ大統領の手法は,その代表的なものだが,日本の安倍政権も,つねに敵を作りながら,国民感情をあおってきた.このかたちは,ヨーロッパ諸国にも広がり,中国や韓国でも同じような政治がおこなわれている.
現代世界では,近代社会がつくりだした約束事が崩壊してきたのである.
私たちは,そういう社会と向き合わなくてはならなくなった.
だが,感情は必ずしも悪いものではない.たとえば困っている人を見かけて手をさしのべようと思うのも感情だし.いろいろなことに共感したり,関心を持つのも感情だったりする.
問題は,そういう人間的な感情ではなく,ヘイトスピーチのように根拠もなく他者を攻撃する感情や,政治目的で国民感情をあおる政治がはびこっていることにあるといってもよい.
私はこういう時代をつくりだしたのも,近代社会のあり方なのだと思っている.
近代社会は,バラバラな個人をつくりだした.この個人にとっては,大事なものは自分だけであり,その自分を評価しようとしない社会への不満が蓄積されていく.この感情を土台において判断するとき,他者に対する攻撃的な感情が広がっていく.
とともにこの個人の支持を得ようとする政治は,たえず敵を措定しながら,他者に対して攻撃的であり続ける.そのことによって国民感情をあおり,それを自分たちの支持基盤として使おうとするからである.
とすると私たちがめざすべき社会は,感情と知性のバランスが保たれ,感情が他者への温かさをつくるような社会なのであろう.
そしてそれは,結び合う社会のなかで成立するものである.
友人や家族のような,結び合う小さな社会のなかでは,感情はときに温かいものを生み出す.
今日の問題は,結び合いを失った社会,個人がバラバラになった社会がつくり出した問題なのである.
そういう社会では,感情だけが独り歩きすると,ときにそれは他者を攻撃する凶器になり,ときに政治的独裁の道具になってしまうことが,いま明らかになってきた.
(哲学者)
2020・2・9