障害者も認知症の人も,受ける「差別」「偏見」の根っこは同じ./ 認知症と告げられたとき,「なぜ自分が!」と怒りにも似た気持ちになる.自分の内なる差別と偏見意識が,病気であることを拒否する. / 「差別と偏見」は内なる自分の心にある.この「差別と偏見」は,自身が闘わない限り乗り越えることは難しい,やっかいな魔物である. 藤田登志子  認知症の人と家族の会顧問,事務局長 

「生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの

 大月書店」より

 

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認知症の人と家族の立場から思うこと

藤田登志子 公益社団法人 ,富山県支部認知症の人と家族の会顧問,事務局長

 

障害者も認知症の人も,受ける「差別」「偏見」の根っこは同じ

 

一九八〇年の京都で結成された「認知症の人と家族の会」は,当初「呆け老人をかかえる家族の会」という名称であった.呆け,または痴呆性老人と呼ばれていたが,富山県支部結成当初の八三年ごろは,新聞では「呆け老人」ではなく「痴呆性老人」の会が結成されたとの報道がなされた.

 

二〇〇四年,国際アルツハイマー病協会の会議が開催され,はじめて認知症本人からの発言があった.オーストラリアの官僚であったクリスティーン・ブライデンさんが,認知症の本人として登場したことは驚きであった.それまでは「認知症の人は何もできない人」と専門家も含めて大多数がとらえ,本人も家族も「恥ずかしい病気になってしまった,もう誰も相手にしてくれない,公表できない」として病気を隠すことが当たり前であった.

 

二〇〇六年「痴呆」が認知症に改変され,家族の会も「認知症の人と家族の会」に名称を変更した.「認知症の本人」も「家族」も主役であり,対等の関係と位置づけられた.それまでの会の活動内容は大きく変わった.

 

 

認知症の正しい理解」と「差別と偏見」は表裏一体の関係にある

 

認知症になったとき,多くの本人も介護家族も「もう人生はおしまい」と感じる.認知症になったら,何もできない.これからどうしたらいいのかと悩む.

「どうして認知症になったのか」と受け入れられない人もある.

認知症について学ぶ中で,「認知症になってもできることは多くある」と気づくのが早いか遅いかによって,その後の生活は大きく変わる.

今では,少しの支えがあれば普通の暮らしを継続できるのだ.ただ,その支えが社会的に整備されているかといえば,まだ不十分であることは否めない.

 

認知症と告げられたとき,「なぜ自分が!」と怒りにも似た気持ちになる.自分の内なる差別と偏見意識が,病気であることを拒否する.

公表することをためらう意識が強いほど抵抗が大きい.そのことを一方的に責めることはできない.公表したくなければ,そのことをしっかり保障することも必要だが,公表しなければ,まわりの支援や協力を得ることがなかなかできないことも事実である.

「差別と偏見」は内なる自分の心にある.この「差別と偏見」は,自身が闘わない限り乗り越えることは難しい,やっかいな魔物である.

乗り越えたと思っても次の壁がまた立ちはだかる.その行きつくところが「個の確立」であろう.

事件のあった神奈川県の県議会が,「差別と偏見のない社会を!」と,「ともに生きる社会かながわ憲章〜この悲しみを力に,ともに生きる社会を実現します〜」を策定したとのこと.

今,命を軽んじ,人間の尊厳を冒すような言動が,特に政権与党や権力を握る人たちから発せられることに懸念をもち,そのような風潮が今回の事件の背景にあることを感じる.

決して許してはならない事件である.「差別と偏見」について,つねに自身に問いかけつづけている.