私が震撼するのは,第一に,彼(相模原障害者施設殺傷事件の容疑者)が自分が行う人間の選別や大量殺人に「社会が賛同してくれる」と確信できたという事実なのである.彼の頭の中では,今回の事件の本当の主体は彼自身ではなく,彼に賛同してくれるはずの社会なのである./私が震撼するのは,第二に,彼の確信のありえなさではない.彼がそう思っても仕方ないと思える現実が,今の日本社会にあるから,震撼しているのである. 市野川容孝  

社会的殺人(1)

「母よ!殺すな」の先にあるもの  市野川容孝(いちのかわ・やすたか)

福祉労働 153

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(市野川容孝 いちのかわやすたか 1964年生まれ 東京大学教授 専門は社会学

 

今回の事件で,十九名の障害者は一人の元職員の青年によって殺されたのだが,かれは「社会が賛同してくれるはずだった」という確信とともに犯行に及んでいる.家族ではなく,社会が,彼の共犯者である.新しい状況・段階で求められるべきことは,日本の障害者運動の延長線上にある.すなわち,それは脱施設化に他ならない.

 

「社会が賛同してくれるはずだった」

本年(二〇一六年)七月二十六日未明,相模原市の障害者施設で,入所していた一九名の障害者を刃物で殺害し,さらに二七名に重軽傷を負わせた元職員の容疑者の青年は,ある報道によれば「事件を起こした自分に,社会が賛同してくれるはずだった」と供述しているという.

 

それが事実なら,彼のこの言葉は本当に震撼すべきものだと私は思う.

 

二〇〇八年六月,七名が殺され,十名が重軽傷を負った秋葉原の事件も本当に痛ましいものだったが,事件当時に報ぜられた犯人の青年(二〇一五年二月に死刑確定)の言葉には,社会に対する復讐心のようなものが感じられこそすれ,自分がしたことに社会が賛同してくれるとか,社会の理解が得られるといった考えは見られなかったし,そういう考えに突き動かされた一七名もの人を殺傷したわけでも全くなかったと思う.むしろ,青年は,社会が自分と自分の境遇を全く理解していない,社会から自分がきちんと承認されていないと思ったから,あのような事件を起こしたように思うし,その意味で社会への復讐だったと思う.

 

しかし,今回の相模原市の事件は違う.容疑者の青年は,社会のためになるはずだという確信から犯行に及んだように思えるのだ.衆議院議長に宛てた手紙で彼が自分の犯行計画を事前に伝え,さらに安倍晋三首相の耳にも入れてほしいと嘆願したという事実が,彼のその確信を裏付けている.

 

二〇〇八年の秋葉原の事件ともう一つ異なるのは,秋葉原の事件の青年が,事件直後,傷つける相手は「誰でもよかった」と供述していたのに対し,今回の事件の青年は,自分が殺す相手を障害者,しかも言葉が話せない(コミュニケーションがとれない)と彼が思い込んだ重度の障害者に限定している点である.

 

秋葉原の事件の青年の「誰でもよかった」という言葉をそのまま信じるなら,彼は少なくとも犯行のその瞬間において,人間を障害の有無によって区別(差別)していない.しかし,今回の相模原市の事件の青年は,「生きるに値する」者とそうでない者という形で,人間をはっきり二つに選別した上で「生きるに値しない」と彼が思い込んだ人だけを周到に選び出して,刃を向けている.

 

私が震撼するのは,第一に,彼がそういう人間の選別や,自分が行う大量殺人に「社会が賛同してくれる」と確信できたという事実なのである.そう確信できたということは,つまり,彼の頭の中では,今回の事件の本当の主体は彼自身ではなく,彼に賛同してくれるはずの社会なのである.彼は,彼の考える社会の手足,道具となって,障害者を殺したと思っている.

 

「社会的殺人」という言葉は,F・エンゲルスが「イギリスにおける労働者階級の状態」(一八四五年)で,多くの労働者が貧困にあえぎ,生きるのに必要なものを満足に得られず,早死にしている状況を告発するために用いたものだが,「社会が賛同してくれるはずだった」という確信の下になされた今回の相模原市の事件もまた,別の意味で「社会的殺人」と言えるだろう.彼の殺人の背後には,彼にそうさせる社会が存在している.

事件の直後,障害を持つ私の知り合いの何人かは,自分も襲われるかもしれないという直接的な身の危険を口にした.二〇〇七年から一一年まで障害学会(二〇〇三年設立)の会長をつとめた旭洋一郎さんもその一人で,旭さんは事件の翌日の七月二十七日に,フェイスブックで次のように述べている.

 

日々,ぼくは突き刺さる視線を受けている.そのぼくが心の安定を得ているのは,社会を信頼し,多少,スルーする開き直りによる.しかし,この事件のあと,生理的心理的に,身構える瞬間があきらかに増える.

 

障害者に「日々,突き刺さる視線」.私を含めて非障害者は感じずにすんでいるこの視線を,突き刺す側から忠実に内面化(学習)し,強めてゆけば,今回の事件の青年の確信が生まれるのだと私は思う.旭さんの感じている視線が妄想でないのと同様,青年の確信も妄想ではないと言うべきだろう.

 

私が震撼するのは,第二に,彼の確信のありえなさではない.彼がそう思っても仕方ないと思える現実が,今の日本社会にあるから,震撼しているのである.

 

バイオエシックスパーソン論

私がそう思う理由の一つは,今回の相模原市の事件の青年とよく似た考えが「バイオエシックス生命倫理)」の一部で説かれ,日本にも紹介されてきたからである.森岡正博が批判的に「パーソン論」と呼んだものがそれである.

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中略

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「母よ!殺すな」の先にあるもの

オーストラリア出身で,現在,アメリカのプリンストン大学で教授をつとめているピーター・シンガーが,一九八九年にドイツで,先のエンゲルハート(本稿上記の---中略---部分でエンゲルハートの思想が紹介されている)同様,重い障害のある新生児に対する積極的安楽死は,その親の同意があれば認められるという主旨の講演を行おうとしたところ,ドイツで猛烈な反対運動が起こり,彼の講演が中止されるという騒動があった.

 

(続く 予定)