8月18日.今日は,私にとって特別な日.
そして,昨日まで四連続でNHKBS1スペシャル「鳴門の第九 歌声がつなぐ日独の100年」を取り上げていたこともあって,
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午後から,部屋でも,移動中の車の中でも,今まで,ベートーヴェン「第九交響曲」を流しっぱなしの日でした.
やや重厚過ぎる気もして,普段あまり聴くことはありません.しかし,聴くたびに,心揺さぶられます.音楽音痴の私でさえも.
何がそうさせるのか?
以下,吉田秀和氏の「私の好きな曲(筑摩文庫)」から,
曲全体の解説・解釈の大半は専門的すぎて私には分かりません.しかし,以下の最終楽章の部分は,誰にも分かる内容です.吉田氏ならでは名文で.
(「私の好きな曲」筑摩文庫)
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終楽章
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(「合唱を終楽章に導入したために構造的矛盾を生じた」とするシントラー
;吉田秀和氏に 言わせると「音楽的大俗物」の方,の説を受けて)
この交響曲に,声楽を導入したのが誤りだったのではない.
最初の三つの楽章が純粋な楽曲として書かれてきたあと,終楽章になって,はじめて人間の声が,歌が導入されてくるということにこそ,この交響曲の偉大な,そして唯一無二の音楽たる所以(ゆえん)の一つがある.
これは,はじめから歌の入るカンタータやオラートリオとはちがうのである.
この歌は,それまでの大交響曲の精髄をつくしたアレグロ,スケルツォ,アダージョの三つの楽章が終わった.その地点で,はじめて存在理由が生まれてくるのだ.
それは,この曲をはじめてきいたとき,世界中の人びとが,終楽章にいたって歌がはじまったとき,その歌声をきいたときの,あの大きな感動を思い出してみれば,わかるはずである.
四つの楽章からなる大形式の器楽曲をつくる場合,終楽章の任務は何か?先行する三つの楽章を総合する結論であり,さらにもう一段昂揚(こうよう)した内容をもつ終楽章とはどんなものでなければならないか.
この問題で,あらゆる音楽家のなかで,最も深刻な思索と痛切な研究を重ねた天才ベートーヴェンのこれは一つの結論であった.
私はヴァーグナーのいうように,これがベートーヴェンの最後の結論であり,ここにあるのは純粋器楽としての交響曲の破産宣言だという議論にはついていかれない.しかし,これがベートーヴェンの提起した大きな結論の一つであることは疑う余地がない.
くり返すが,この曲が終楽章に入り,歌声がはじまったとき,私たちが覚えるあの感動は,その動かせない証拠である.
私はまた,もう一つのことを考える.
傑作というのは,それもこの曲のような人類的次元でのそれと呼ばれるに値するものの場合,単にこれを鑑賞する人間にとってだけでなく,それを演奏する人びとにも,その作品をつくることが,つきせぬ喜びをもたらすものでなければならないだろう.
そうして,『第九』のはじめの三つの楽章が終わったあとにくる合唱とは —少なくとも理論的にいえば— どんな人間でも参加して,いっしょに歌うように招待し,その参加を歓迎している音楽ではあるまいか?
「歌いたい人は,みんな来たまえ!少なくとも,この“ふし”は一度きいたら覚えられ,誰にも歌えるはずのものだ」と,この音楽は,いっているのではないだろうか?
「人間はみんな兄弟になる.やさしい妻をかち得た人は,やって来て,この輪踊りに参加したまえ」
第九交響曲は,音楽の機能の最大の一つである儀礼的な性格を十分にそなえ,荘厳の極(きわ)みの瞬間までのぼりつめている一方で,笑いと涙,やさしさと荒々しい力強さ,陶酔と行動といった対照物のあいだでの均衡と調和をとるのに成功した大芸術である.しかも,この曲のすごい点は,儀礼的でありながら,内容の充実を欠いた箇所が一つもないところにある.この曲は完全に真実の感動と至上の技術で充満していて,空虚がないのである.
こういう作品は,私は,あとバッハの最高の作品である『ロ短調ミサ』と『マタイ受難曲』でしか知らない.ただ,バッハのものは,教会,キリスト教の会堂のなかにおかれるのが本来のものだ.ところが『第九』は,その教会にも閉じ込められない.『第九』は,それがよく演奏されるところ,それがどこであれ,そのまま音の最高の殿堂となりうるという性格をもっている.
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私はあと一つ,終楽章で,私がどこが一番好きかを書いておきたい.それは,実は,喜びのふしでなくて,「星空のうえに,彼が住んでいるにちがいない」という箇所.
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第九を聴きながら移動した行き先は霊園.
お盆と命日を兼ねたお墓参り.
昨年同様,霊園のあちこちにサルスベリ.赤が多く,次がピンクで,白はわずか.
猛暑が続いた中,今日明日はやや過ごしよい日,という予報通り,過ごしやすく,空は秋の空でした.
サルスベリ以外の花として植えられているのは低木のアベリア.
歩道のあるところにはすべて植えられている感じ.5月中旬から10月まで咲くという,優れもの.日本のツクバネウツギと同じ属の植物です.
そして,お墓の後ろのツツジに絡みついていたのがヘクソカズラ.名前で大損をしていますが,可憐な花です.