紅の豚の挿入歌が実はテスト版だった,そして,宮崎駿監督の演出でジーナを演じながら歌った映像が元になっているという逸話を語った加藤登紀子さん.
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続いては,子育ての話を中心にしたプライベートな話題.最後は「100万本のバラ」との出会いと歌への思いを語ります.
ごごナマ おしゃべり日和「加藤登紀子 名曲に秘められた驚きの秘話とは」 - Google 検索
出演
U字工事(ゆーじこうじ)/福田 薫・益子 卓郎
「船越のクエスチョン5
即座にお答えになって頂ければと思います.」
クエスチョン1. 最近はまっていることがある? YES
「なんでしょう?」
クエスチョン2. 毎日歌わないと落ち着かない?YES
加藤登紀子「本当はそういう事なかったんだけど,最近,お風呂に入ると,どうしても歌っちゃう.2時とかでも.ごめんなさい」
クエスチョン3. どうしてもやめられないことがある.YES
加藤登紀子「「うーん.まあ,ありますね」
クエスチョン4. 若手ミュージシャンの曲をチェックする. YES
加藤登紀子「「やっぱり聞きますね.すごい刺激されます」
クエスチョン5. まだまだチャレンジしたいことがある.YES
加藤登紀子「「あるに決まってるじゃない」
「最近はまっていることがある? YES.これなんでしょう?」
加藤登紀子「「毎年,一つ何かはじめようとおもって,トランポリンに」
「えーっ」
加藤登紀子「「今年の初め--去年の暮れに,通販で申し込んで,1日から始めた」
「トレーニングの様子.映像がありますからご覧頂きます」
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加藤登紀子「「(テレビで)あるときハツカネズミで実験してたんですね.遠心力で壁に押し寄せながら,抵抗していたハツカネズミは,骨粗鬆症にならないの.
-----あとそれから,ニュートンの原則に少し抵抗しなくてはいけないの.つまり上下運動がいいらしい.横揺れでは駄目なんですね.骨に対する運動量が足りない.縦揺れのリズムで」
----「30分以内にお申し込み下さい.あれに弱いです.うちに健康器具がいっぱいある.だけど少しずつ卒業したり,やらなくなったりで.今年はトランポリンにはまってます」
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「どうしてもやめられないことがある.こちらもYES」
加藤登紀子「「決めちゃったことがあって,新聞を必ず切り抜きする.毎日できないときもあるんですけど,決めちゃったから貯まってもやります」
「そのファイルお持ち頂いたんですよね」
加藤登紀子「「環境と政治.これは文化.」
「これは加藤さんが気になった記事をこうやって--」
加藤登紀子「「忙しいから読めないじゃないですか.ゆっくりしているときに,入れながら読む」
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加藤登紀子「「天気予報を見るような感じですよね」
加藤登紀子「「誰かにこんな事があったよね.と話したときに,記憶が曖昧ではいけないなっていうのがあって.その不安もありますよね.だんだん記憶がいい加減になっていくっていう.ものがあった方が--」
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「裁縫やって,トランポリンやって忙しいですね」
加藤登紀子「「でもね.トランポリンは1分だし,これも短い.あっさりこう.忙しくてもできる事.皆さんにお勧めです.短い時間でもできる」
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「そして,若手ミュージシャンの曲をチェックする.YES.最近は,どんなミュージシャンの?」
加藤登紀子「きゃりーぱみゅぱみゅ.詞ですね.詞が面白いですね.音楽の形が変わっているけれども,詞は共感するものがあります.あと,欅坂46.
相当,過激になってきましたね.私たちのは全然柔らかいですね.刺激されます」
最後のトークテーマ
運命の決断.歌をやめる!?そして,---「100万本のバラ」 との出会い.
「1971年の紅白歌合戦に,加藤さん,初出場されます.その翌年,長女の美亜子さんを出産されました.その時に,夫から二者択一を迫られたんです.歌をとるの?子育てをとるの?これに対して加藤さんが出した答.『歌はやめない』.この時のご心境は?」
加藤登紀子「「お前は欲張りだと.だから,一生懸命,子育てをしてくれるのはいいけれど,からだ,壊すと.軸足を決めろと,言ってくれたんです.
そのとき,瞬間的に歌はやめられないって,思ったわけ.それで,『歌はやめない』と言ったら,じゃあということで,彼が,彼の母を東京に呼ぼうということで,私,歌うのに専念していいよと言ってくれたんです.
そしてら,二人目の子どもがお腹にできたんです.それで,二人目も産み,かつ,事務所も自分で開いて,両輪を始めたわけですよね.こうなったら行くしかないので.
三人目が生まれて,三人目が小学校に上がったのが,1987年.忘れもしない.『100万本のバラ』をリリースした年なんです.
本当に結婚したとき,いったん,歌手はできないかもと思った時期がありました.やめる決心を1回はしたんですが,子どもができてから歌いたくなって,歌い始めて,それでも,子育てをしながら歌うのには,しょっちゅう迷いがありましたね.もう,無理かなというのは.ありましたね」
「とてもお忙しかったわけですよね.そのことをお子さんがどう思ってらしたのか,気になるところではないでしょうか.実は加藤さんに内緒で,」娘さんにメッセージを頂いています」
Yae「船越さん,美保さん.はじめまして.Yaeです」
「加藤登紀子さんの次女.(歌手の)Yaeさんです」
Yae「小学校ぐらいまでは,家にお母さんがいないのが寂しくて,結構,泣いていることもあったってきいてるんですけど.中学校ぐらい,成長していくと,逆にいない方がいい瞬間はあったりするんですけど.次女なんで,だいたい“あまのじゃく”といわれている.反抗期が長い.『早く帰ってきなさい』って言われても,『家にいないじゃん』って抵抗してましたね.
でもうちの母はすごく心配したと思うんですね.そんな時に母が『信じてるからね』って一言をかけてくれたんですね.その一言で,私は助けられたというか,大切な言葉に,今,なっています」
「そして,3人の子どもの母おいやになったYaeさん.加藤さんへの思いも変わってきたと言います」
Yae「すごく距離が縮まったような気がします.反抗期が長かったですけど,グッと縮まってきて,私が子育てで,ガーッてなってるとき,『大丈夫よ!そんなの』って言われると,すごく気が楽になる.母親の先輩としてアドバイスをもらえるのはありがたいなと思います」
加藤登紀子「縮まってきました.年齢の幅が.違うか?それはうれしいですね」
「加藤さん自身もそれはお感じになってるわけですね?」
加藤登紀子「私と同じように,彼女も歌いながら3人,子どもを育ててるので,今が一番大変なときで,下がまだ学校に上がってませんので,4歳ですから.
私は学校に3番目が上がったとき,本当に初めて家にいて,歌手・加藤登紀子を皆に見せようっていう,それに一番中心に置いて,その人がお母さんやってるんだっていう,そういう関係に初めてなりましたもんね.
そして,子育てが終わったら今度はものすごく楽になりました.大変なことは確かですけれど.子どもが生きる力を持っているので,私の母もよくいってましたけど,子どもが1人より3人になった時の方が,むしろ楽だったかもしれないというのはあります.子ども自身が子ども同士で生きてくれるという.すごい,子どもに助けられて,無事に.
まだ育て終わってないけど,もういいです.次に孫がいますから.それを気にしていたら,切りがないですから.みんな,生きる力を持っていたんだなということが分かっただけでも,本当にうれしいです」
「人生を振り返ってまいりましょう.子育てをしながら歌手活動も続けてこられましたが,加藤さんの代名詞ともいえる名曲に出会うことになるんです.
それが『百万本のバラ』.どういう経緯で出会うことになったんでしょうか」
加藤登紀子「これはたくさん歌っている人がいて,ロシア人との混血だったニーナさんって人が,私にロシア語と日本語の両方で歌ったのをプレゼントしてくれた.
ロシア語の意味を調べたら,すばらし物語だったんです.何の気なしに日本語で作って,弾き語りで歌い始めたのが,85年ぐらい.レコーディングする前ですね.
それから,どんどんこの曲のバックグラウンドとか歴史的な背景とか,この歌に込められた実在の画家の話とかするようになって,本当に大切な曲になりました.
最初は,ヒットソングになるとは夢にも思わなかったです」
「レコーディングのために詞をお書きになったり,歌われたわけではないんですね?」
加藤登紀子「どっちかというと,とても個人的に好きになっちゃった歌だけど,いろんな人が歌ってらっしゃるし,人のレパートリーなので,最初はしばらく歌わないでいたんです.
でも,好きなものっていうのは伝わるんだなって.歌を聴いて下さる方が選んで下さるというか.
私は,それまでは,ステージにもお酒は届くけど,お花の届かない歌手だったんですね.『百万本のバラ』を歌うようになってから,本当に花が届くようになって.謎のようなこともありましたね.行く先々にばらの花が届いたという.それは,皆で鳥肌が立って,誰かが応援してくれているってね」
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「この歌を歌っていらっしゃる紅白歌合戦の映像です」
映像: たくさんのばらに囲まれた加藤登紀子(当時46歳)
加藤登紀子「大人っぽいでしょ.30年前の私です.
あの頃,大人っぽい女になりたかったんですね.とても.
今,少し子どもっぽい女になりたいから.今年の暮れに,3回目の25歳」
「長い間歌ってこられて,この歌の存在感っていうのは,ご自身の中では,何関わってきた部分はあるんでしょうか?」
加藤登紀子「特に,これは私のオリジナルじゃなくて,翻訳ですが,ラトビアという国で生まれた子守歌が,ロシア語になって.
そういう,いろんな歴史の中を人々が生き抜いてきた,その思いっていうか祈りみたいなものが,この歌に込められていて,そういう事が,私の歌の中には大きな力をもらってるなと思いました.
だから,私もそろそろ,去年,母が死んだり私の夫も逝きましたし,みんな,いろんな人,自分の人生終わっていくんだけど,それだからこそ,歌が大事なんだと.そのたびに思うことが膨らんで.
だから,歌も,これを---.まだ曲を作った人は生きていますけど,どんどん老齢になります.そういう人が『愛の賛歌』とか,エディット・ピアフとか,とっくの昔に死んでるんですけど,でも,そういう人たちの生きた証みたいな,息遣いみたいなもの,強く私たちに伝えてくれるもの.
だから,私も,その意味で歌を受け渡すのが歌手という仕事なんだなっていうふうに,思うようになりました」
「メッセンジャーなんだと思って,時代を超えて,何千年先とかも,人類が生きる限り」
加藤登紀子「人は,なかなか,そう簡単に越えられないし,言語も越えられないけど,もっと,それを越えて生き抜く力が,歌の中にあるんだなって」
スタジオでの弾き語り「百万本のバラ」