久しぶりの虹
今日は,夜明け前から大雨.その後も降ったり止んだり.
夕方になって,やっと陽射しが.町へ出てふと東の空を見ると.
虹です.
全体が夕焼けといってよいような,やや珍しい空.虹も赤く見えます.
拡大してみても,七色の虹とはかなり違いますね.
空としては,5、6分後に見えた西の夕焼けの方が見事でした.
欧米では虹を七色と数えないと聞いたことがあります.
改めて調べてみました.中では,一橋大学図書館の記事が,ほぼ完璧と言っていいぐらい良くまとまっていました.
少し長くなるので,一部改変して,掲載します.もとの文章は,次のURLを参照して下さい.https://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/owen/rainbow-color.html
虹は本当に七色か
「七色の虹」というのはなじみ深い慣用表現だが,江戸時代末期に西洋科学を取り入れ始めるまでは,日本の文献で虹の色の数を「七」と記載したものはないという.
実際,七色がはっきり揃って見分けられるような完璧な虹を現実に目撃したことのある人はどのくらいあるだろうか? 金子隆芳(『色彩の科学』)は,「虹の色は大ざっぱに言えば赤,黄,青の三色,それに緑を加えてせいぜい四色である」と述べている.
現代の西洋人に虹を構成する色の数を問うと,たいてい六色以下で答える(鈴木孝夫『日本語と外国語』岩波書店1990年).けれども実は欧米人もひと昔前までは,虹を七色と考えていたらしい.
板倉聖宣(『虹は七色か六色か : 真理と教育の問題を考える』仮説社)によると,アメリカの小中学校用の理科教科書は,1940年までは,みな「虹は七色」と書いてあったという.
虹を七色とみなす考え方の起源は,ニュートンによる太陽光線の分光実験に由来する(金子隆芳『色彩の科学』) *.
ニュートン以後,西洋の学校教育では,「虹は七色」として教えられるようになっていった.ところが,シカゴ大学の実験学校の Bertha Morris Parkerの主張(『Clouds, rain, and snow』 1941)をきっかけに,「虹を七色と考えるのは無理で,六色と考えたほうがいい」という説をアメリカの他の教科書の著者たちも採用するようになった.
構造主義言語学や文化人類学では,「言語が世界の見え方を規定する」という考え方を説明する例として,虹あるいはプリズムを通したスペクトルがひきあいに出されることがある. しかし,アフリカのショナ語は三色,バサ語は二色,と例示されている(グリースン(Gleason)『記述言語学』)のは,色彩語彙の基本カテゴリーの構造の次元(例えば Berlin, Brent ; Kay, Paul. “Basic color terms” )のことに過ぎず,もちろんショナ語にもバサ語にも,もっと細かい色を表わす用語が多数ある.
文化の発達していない「未開部族」なので色認識が乏しくて色彩語彙も二色や三色しか区別しない(できない)のでは決してない.けれども,前後の文脈を離れて引用されると,あたかも,世界の言語の中には,色彩名称が二つか三つしかないような「驚くべき言語」がある,珍しいですね,という話のように誤解されかねないので注意が必要である.**
*加筆(虹 - Wikipedia Rainbow - Wikipediaより)
*物理学の視点では無限の色が有る,と見るのが正しい.なぜなら,地上に届く太陽光のスペクトルは連続しており,連続する物を「数える」事は出来ないから.ニュートンはもちろんこの事を知っていました.
色が分離しているようにみえるのは,人の知覚がそうさせるのであって,主な色が幾つあるかは,恣意的ともいえる選択の結果です.プリズムによるスペクトルは,細かく数えると100色まで見分けることが可能だそうです.
なお,「大気光学現象」である実際の虹の色と,プリズムによる太陽光線の分光実験では,見え方が異なります.これは,虹がプリズムによる分光より複雑な過程を経て見えるからです.
**加筆
ネット上には,まさに「珍しいですね」という記事が満ちあふれています.「未開」とされる人々の色彩感覚の素晴らしさは,衣装を見ればすぐ分かるのに.日本の天平時代の色彩感覚は現代に優るといっていいことも,合わせて肝に銘じるべきでしょう.
虹は人の心を晴れやかにさせます.
すれ違った観光客らしき5-6人連れの若者に,「虹が出ているよ」と教えると,歓声を上げてスマホにおさめていました.
残暑もあと1日か2日で峠を越しそうです.やっと秋です.
生花店の店先は,普通はもうほとんど咲かないキキョウを含めて,秋を演出しています.