「生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの
大月書店」より
津久井やまゆり園事件の感想(2)
鈴木容子(仮名)
精神障害当事者
最後に,容疑者が発した「世界が平和になりますように」です.私が考える世界平和とは,「障害者」という言葉がなくなることが本当の平和であると思っています.
世界中に障害者のいない国はありません.それは自分が望まなくても障害のある人が一定数誕生することからもわかります.そして,戦争や科学の濫用などで障害のある人が作り出され,技術の進歩や経済的な価値の優先から障害の判断基準が変化して,障害のある人が増加しています.そう考えると,世の中が進化すればするほど障害者が増えていくことでしょう.
そして,今回の事件を振り返ってみると,今まで皆が知らぬふりをしていたことの“つけ”が,この事件につながっているのでないかと思うようになってきました.
私は障害とは「個性ではなく,負わされた重荷である」と思っています.これをどう自覚し,まわりに理解してもらうか.
私は生まれたときか障害者だったわけではなかったことを考えると,誰もが障害をもつ可能性があることを知り,生まれたときから身近に存在していることが大切であると思っています.
母親を見ていると,個々により程度が違いますが,人間は必ず誰かの支援を受ける時間があり,死んでいくのではないかと思います.
それでも母親が幸せに見えるのは,生きたいところで私と生活できていることがあるからではないかと思っています.
この事件があった環境をみると,家族からも世間からも見放されたようにしか見えませんでした.これこそが障害者差別だと感じます.
ある本に書かれていた「昔はバカがいたが,最近どこかに隠されて見えなくなった」の言葉が象徴しているのではないでしょうか.いろいろな人々が共存していたはずが,最近はそれを隠しています.
このことから,障害のある人を軽蔑することが当たり前となり,いじめにもつながっていると言えます.子どもの世界だけではなく,大人の世界にもあり,どんどんがんじがらめになってきているように感じています.
まとめとして,前で書いたように「障害者」という言葉がなくなるためには,世の中が勝手に理想の人間像をつくり,この理想から外れる人やマニュアルからはみ出る人を排除することがよくないことであり,「人それぞれ違ってよく,違うことが当たり前」と思える教育を,生まれたときからしていくことが必要であると思っています.
人は皆,個人として尊重され,愛されて生きてく権利をもちます.
障害があってもなくても人は皆,みずからもつ暗い側面も尊重され,他者とのつながりのなかで折り合いをつけ,みずからを肯定して生きていけます.
その機会を奪うことがあってはいけません.今の私があるのは,理解のある友人や支援者がいたことと,信頼のおける主治医が私の見つけたセカンドオピニオンを容認してくれ,私が納得することができたからだと思っています.