鎌倉扇ガ谷巽荒神.“住宅街の中にあって,派手さは一切無い”「神社」.しかし, “荒神”を辞典・事典類で調べてみると,[1]仏教における三宝荒神.[2]竈神.「神社における“荒神”」を解説したものがほとんど見当たりません.もちろん,神社で「荒神」が前面に出ている所は,巽荒神だけではありません.巽荒神と同じように奥津日女命・奥津日子命・火産霊命を祀っている神社はかなりありますが,仏教・民間の竈神との絡み合いはよく分かっていないようです. 

庭にはハルジオンが咲き,

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“住宅街の中にあって,派手さは一切無い” 鎌倉扇ガ谷巽荒神

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正式名は巽神社で,巽荒神社は通称名

1200年以上の歴史(言い伝えでは)を誇る「神社」とのこと.

 

しかし, “荒神”を辞典・事典類で調べてみると-----

大別して二つ

[1]仏教において,仏・法・僧を守る「神」としての荒神(「三宝荒神(さんぼうこうじん)」の略)

[2]竈(かまど)を守る神としての荒神(古来からの土着信仰?)

 

「神社における“荒神”」を解説したものがほとんど見当たりません.

 

例えば,かなり整理されて記述が見られた日本国語大辞典では次の通り.

日本国語大辞典

荒神

[1] (「三宝荒神(さんぼうこうじん)」の略)

仏・法・僧の三宝を守るという神.怒りをあらわし,三つの顔と六つの手をもつ.修験道日蓮宗などで,とくに信仰される.荒神様.

源平盛衰記(14C前)一「我(われ)財宝にうへたる事は,荒神(クハウシン)の所為にぞ」

 

[2]

① かまどを守る神.かまどの神.民間で「三宝荒神」と混同され,火を防ぐ神として,のちには農業全般の神として,かまどの上にたなを作ってまつられる.毎月の晦日に祭事が行なわれ,一月・五月・九月はその主な祭月である.たなには松の小枝と鶏の絵馬を供え,一二月一三日に絵馬をとりかえる.荒神様.〔日葡辞書(1603‐04)〕

浮世草子・日本永代蔵(1688)二「又壱人,『掛鯛(かけだい)を六月迄,荒神(クハウジン)前に置けるは』と尋ぬ」

② 近畿以西に濃厚な分布をもつ屋外の神.屋敷神,同族神,集落鎮守の場合があり,荒神講を組織して集落中で飲食する地方も多い.また転じて,かげにいて守ったり援助したりする人をもいう.荒神様.

※諸国風俗問状答(19C前)備後国福山領風俗問状答「荒神と申す小神祠,村々に有之」

 

 

もちろん,神社で「荒神」が前面に出ている所は,巽荒神だけではありません.

そのような神社の幾つかは,荒神の解説をウェブ上にアップしています.

共通してみられる記述は

荒神はもともと竈の神」

「仏教では三宝荒神を意味する」

「神社では, 奥津日女命 おきつひめのかみ,奥津日子命 おきつひこのみこと,火産霊命 ほむすびのみこと を祀る」

(⇒*)

 

しかし,この三者の関係については,明確な記述がありません.まだ,解明できていない絡み合った関係があるのでしょう.

神社と仏教は,私の乏しい日本史の知識でも,神仏習合のうねり,そして明治維新後の廃仏毀釈という,両者の関係を変化させる大きな波を受けています.

 

現在の巽荒神の祭神は,上記の「神社における荒神」の解説と同じ次の三名ですが,歴史を通してこの神々が同様に祀られてきたか?という疑問さえも残ります.

この神社の沿革に,近くの寺院のもとにあったとの記述があるからです.

(⇒**)

 奥津日女命 おきつひめのかみ

 奥津日子命 おきつひこのみこと

 火産霊命 ほむすびのみこと

 

荒神様.

名前はよく知られていますが,実は分からないことも多い神様のようですね.

 

⇒*

▽神社による解説

赤羽神社コラム 竈(かまど)の神様

http://ak8mans.com/kamadonokamisama.html

 八百万(やおよろず)の神といわれるように、我々日本人は古代より現代まで数多くの神々をお祀りしてきました。山には山の神が、川には川の神が、この自然界のあらゆるものには神が存在すると信じてきました。当然我々が生活を営む「家」の中にも神は存在します。その中でも最もポピュラーな神様が、台所にお祀りされる「竈三神」・「三宝荒神」です。 

 現代社会では、安全性の問題からオール電化と呼ばれるマンションが一般化するなど、台所においてもガス器具さえなく、火の気の全くないキッチンも増えていますが、薪を燃やして煮炊きをしていた時代には、竈は食材を調理し命をつなぐ食事を作る大切な場所でした。

 そもそも古代人にとって、火をおこすことは並大抵のことではなく、時間と労力を費やすものでした。その火は外敵から身を守る火であり、暖をとる火であり、食事を作る火であり、火が生活を支えていたわけですから、そこに神を感じ、日を神聖なものとして捉えていたはずです。事実、縄文人には火の信仰が強かったようです。

 竈の神様は、神社系と仏教系の2種類に分類されます。神社系の神様は,奥津彦神(おきつひこのかみ)・奥津姫神(おきつひめのかみ)・迦具土神(かぐつちのかみ)の三神を合わせて、竈三神と呼ばれます。奥津彦神・奥津姫神は竈を司る神であり、そこに火の神である迦具土神を加えて竈の神としています。

 仏教系の神様は、三宝荒神と呼ばれ、仏(仏様)・法(教え)・僧(お釈迦様の教えを守る人)の三宝を守護する神様とされます。主に修験道などが信仰していた神様のようで、如来荒神(にょらいこうじん)・鹿乱荒神(からんこうじん)・忿怒荒神(ふんぬこうじん)のことを指します。「荒神」からも想像出来るように、火の神は普段は人間生活に多大な恩恵を与えてくれますが、ひとたび人間が神を怒らせる と、家や財産などの全てを焼き払ってしまう荒ぶる一面を備えています。ですから竈は常に清浄な状態を保っていなければいけません。

 迦具土神愛宕神社秋葉神社の御祭神でもあり、火防(ひぶせ)の神としても知られていることからもわかるように、我々の祖先は竈の火を大切にし、その火を守護する神様を手厚くお祀りすることによって、一家の繁栄と防火を祈念してきたのです。

 竈の神様は民間信仰と言っても良いものですが、家庭から竈が消えてしまった現代でも、多くのご家庭で台所に「竈三神」や「三宝荒神」の御札をお祀りし、竈の神様の信仰を大切にしていってもらいたいと思います。

 

▽寺院による解説

不動尊 龍光山正宝院 

優しい仏教入門

荒神

http://tobifudo.jp/newmon/shinbutu/kojin.html

身近な神様

荒神様は民家の代表的な屋内神で、竈の神様として祀られます。身近な存在ですが、その由緒は諸説があって、これが本説と言えるお経はありません。

 

荒神と名の付く神様は何種類かありますが、三宝荒神さんぼうこうじんが基本となります。修験道の開祖、役行者えんのぎょうじゃが感得したと伝えられます。

激しく祟たたりやすい性格を持つところから、荒神と呼ばれました。そして不浄をきらうことから、火の神に当てられ、竈の神様とされました。竈の神様となったのは、陰陽道神仏習合説が影響しているようです。

仏教的には、仏法僧の三宝を守る神様であり、三宝を大切にする人や、法華の修行者を守護すると言われます。荒神様は主に修験道日蓮宗系統でよく祀られます。祭日は28日です。

 

お姿

如来荒神、麁乱荒神そらんこうじん、忿怒荒神ふんぬこうじんの三つで三宝荒神となります。三面三眼六臂の神様です。お顔が三つ、ひとつのお顔に眼が三つ、手は6本と言うことです。仏様や神様の手を数えるときは臂ひと数えます。

荒神様は忿怒の相が一般的ですが、一面六臂で優しいお顔をした如来荒神や、一面四臂で甲冑かっちゅうと天衣を身に付けた神将形しんしょうぎょうの小島荒神もあります。また、六面八臂、八面八臂、のお姿などもあります。

荒神様は和製の神様で、インド伝来の神様としては剣婆けんばor乾婆と同じとされ、日蓮の御義口伝巻下では十羅刹女じゅうらせつにょのことと言われ、空海作とされている三宝荒神祭文では、本地仏文殊菩薩とされています。眷属=従者は98,000と言われています。

 

荒神様は扱いが難しい?

修験道系の易の本には、病気の原因を細かく分類したものがあります。それをまとめて見ると次のようになります。

病気の原因は霊に類するものが一番多く約6割をしめます。神様関係は4割で、荒神様は神様関係の中の1割程度です。つまり全体の4%程度で、祟りやすいと言われますが、特別に難しい神様とは言えません。

霊は一般的に負の価値観があり、妄信や怨念、煩悩などから病気を起こすと考えられます。神様関係は、邪まな考えなどを正すために祟る、と見ることができます。

 

 

⇒**

神奈川県神社誌

https://tesshow.jp/kanagawa/kamakura/shrine_ougi_tatsumi.html

延暦二十年(八〇一)坂上田村麻呂が東夷鎮撫の途上,当郡高原岡に勧請したのに始まり,永承四年(一〇四九)源頼義が社殿を改修したと伝える.

その後,寿福寺境内の鎮守として奉斎されたが,再び遷って現在地に鏡座し,この地が寿福寺の巽の方角に当るところから「巽荒神」と称された.

近世になり浄光明寺が所管した.天正十九年(一五九一)社領一貫文の地を寄せられたと『相模風土記』に見える.

徳川幕府から朱印地を寄せられた.天保六年二八三五)社殿の改築があり,明治六年村社に列格した.

関東大震災で全潰し,大正十四年修覆された.扇谷区の氏神社である.境内には手洗石(寛文十二年・一六七二),石灯篭(元禄十年・一六九七),石造鳥居(文政七年・一八二四)などがある.