NHKスペシャル あの日から25年大震災の子どもたち2
NHKスペシャル あの日から25年大震災の子どもたち1
北川さんのように,あの日子供だった,およそ600人に初めての調査を行いました.『震災を生きる力に変えてきた』.そう答えた人たちがいました.長谷川元気さん「(悲しむところを)あんまり見せることはなかったかな」打ち明けることができたのは,中学1年生の時.相手は,テレビ局のディレクターでした.小学校の担任酒井先生は,その成長を,そっと見守り続けていました.「人との出会いの大切さであったりとか,そういうことを震災が教えてくれたな---」
http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2020/01/18/225725
http://www6.nhk.or.jp/special/backnumber/index.html
周囲の支えを受けて,震災のつらさを打ち明けられるようになった長谷川元気さん.
子どもの頃,同じ経験をした人が数多くいることが調査からも明らかになりました.
被災経験が高い人ほど,家族にはつらい体験を打ち明けていませんでした.
http://www6.nhk.or.jp/special/backnumber/index.html
そうした人が,心境の変化のきっかけとして挙げたのが,近所の大人や学校の先生など,家族以外の大人の存在でした.
一方,調査では,震災の体験を前向きに捉えていない人が,今も,4割いることがわかりました.
その回答を詳しく分析すると,意外な事実が分かりました.”震災の体験を消し去ってしまいたい”という設問に対し,7割を超える人が「そう思わない」と否定していたのです.
取材者「今日はよろしくお願いします」
相反する心の内を記した1人内之宮継子さん,38歳です.
中学一年生の時被災し,母親を亡くしました.
何故,つらい体験を消し去りたくないと答えたのでしょうか?
内之宮さん「ぜひ忘れて,無かったことにできるなら,無かったことにしてしまいたいなと,ならへんかなと思うけれど,それはできへん以上は,つきあっていくしかない.っていうか.それもあっての,それで,今の私なので」
(映像 震災直後の尼崎)
25年前のあの日,尼崎市にあった,木造二階建ての自宅は全壊.
母親と4人の子供たちは,崩れた家の下敷きになりました.
継子さんと兄弟たちは,レスキュー隊によって一命を取り留めました.
しかし,母の千寿子さんは,助かりませんでした.
震災から2ヶ月後,仮設住宅で避難生活を送る継子さん家族の映像が残されていました.
4人兄弟の長女.
家族の支えにならなければと,母がになっていた家事のほとんどを引き受けることにしました.
継子さん「お母さん代わり,お母さん役や,私が.お父さんは,お父さんとお母さんの二役をする.だから,足りへんところもあると思うって.だから申し訳ないって言ってたから,じゃあ,お父さんがやるお母さん役を,私もちょっとやったらいいんかなって」
夜が明ける前に起き,家族全員の食事を作る毎日.
母の記憶をたどりながら作ろうとしますが,思うようにはいきませんでした.
継子さん「私が作ったお弁当を持って学校に行くんだなって.私が作ったご飯を食べて大きくなるんやな,と思ったらかわいそうでしょうがなくって.中学一年生が作るご飯なんかしれてるやん.家事だって.
それでやっていかなあかん.みんな,メッチャかわいそうやなと思って.
母さんじゃなくって,私が死んだ方が,みんなのためにも良かったなと思って」
死を意識するほど追いつめられていた継子さん.それでも母の代わりを果たさなければと,自らの心には蓋をして毎日を過ごしました.
親を亡くした子供が集う遺児の会.ここでも,本音を語ることはありませんでした.
夜中に1人,家を抜けだし,街をさまようこともあったといいます.
(映像 待ち合わせのスナックに入る継子さん)
継子さん「こないだは有り難う」
店主「おう」
あの当時の記憶は,今も,しこりとなっているといいます.
継子さん「ちゃんと子供らしく悲しんだりしたら良かったのになって---思う.ちゃんと,その時に,泣かなあかんときに泣かなあかんし,話さなあかんときに,話さなあかんねん.
今更になって気がつく.ね,私の中に甘やかされたい私がおったって.13歳で止まってる継子ちゃんがおって,この子のご機嫌をとりながら,大人のこともやりながらってなると大変やから---」
誰の負担にもならず,1人で生きていくことを意識するようになった継子さん.
(映像 仲間と看護師の服装で写る継子さんの写真)
戴帽式(たいぼうしき)の日の写真です.
実家を離れ,経済的に自立するために目指したのが看護の仕事です.
(映像 病院で働く継子さん)
継子さん「失礼しま〜す.今日担当の内之宮ですよ〜.お願いします.よろしくお願いします」
覚悟を決めて飛び込んだ看護の道.
その仕事が,継子さんに変化をもたらします.
継子さん「お腹は?お腹もよろしい?ちょっと触らしてね」
重い病気やケガと闘う患者たちと向き合う毎日.
継子さん「あ〜,肝臓ね.うんうん---.じゃあ,おうち帰ってどうするんやな〜.おうち帰ってどうする?食べる?」
患者さん「たべたいな〜」
継子さん「そうですよね.あはははは」
患者さん「なんや,食べることばっかっり思われるんやろうけど」
継子さん「いや,食べることは大事ですもんね.私もそう思う」
キャリアを積む中で,指導にあたる後輩たちも増えてきました.
後輩看護師「内之宮さんがよく,“うちの子たちは”って言うんですけど,もう,なんかお母さんですよね.もう『うちの子たち』みたいな感じなんで.すごく,気持ちの面でも,いろいろ支えてくれているな,と思います」
今回の調査で,継子さんは,今の心境について,こう記していました.
Q これまでの25年間を振り返って,今だからこそ被災地以外の人に伝えたいことをご自由にお書き下さい.
「震災の時は,いろいろとお世話になり,ありがとうございました.
おかげさまで,今,こうして人の役に立つ職業に就くことができています.人の役に立てることに喜びを感じています.これからもがんばります」
継子さん「人のため,患者さんとか下の子たちというか,スタッフも含めての,支えになっていること,私が.あそこで関わる人たちの支えになっていることが私の支えでもある.わからんかな?フフフ---」
取材者「支えになれていると感じること?」
継子さん「そうそうそう.なれてるっていうことが,私を支えている」
取材者「なんでですか?」
継子さん「だから,生きてていいんやなって思うから」
これまで,独身生活を続けてきた継子さん.
今も,子供を持つことは考えられないといいます.
心の中に震災を抱えて生きてきた人生.
その自分を受け入れながら,これからを歩んでいこうとしています.
継子さん「自分が被災者であるとか,震災遺児であるということは,私のアイデンティティーの一つ.切り離されへんよな〜.いきいき楽しそうにやってるやんか.やっていると思うねんで.私もすごい努力もしてるし.
だけど,実際,心の中は,いろいろぐちゃぐちゃして,整理がついてなくても,まあ,それなりにいい大人っぽくなってるから,いいんじゃないのって.いいと思いますって.ひとつのケースとして.ふふふふ.
みんな,ぐちゃぐちゃのまま暮らしていきって思うわ.ハハハハハ.
なんとかなる.なんとかなりますって.
まあ,そうならんように,してあげてほしいけどね」
子供時代に震災を経験し,整理の就かない複雑な気持ちを抱えながら,25年を生きてきた人たち.
今回の調査では,震災の経験が,その後の生き方にどう影響したか聞きました.
(続く)