「震災が起きた当時は小学校2年生でした」
俳優北川景子さん.
http://www6.nhk.or.jp/special/backnumber/index.html
25年前の今日(1月17日),阪神大震災で被災しました.
今回,初めて「震災」をテーマにした番組で,自身の経験を明かしました.
「同じ名字の方が続いていると,ご家族だったのかなとか,いろいろ考えてしまいますね」
http://kobevolunteer.blog.fc2.com/blog-entry-379.html
「家族と一緒に寝ていたんですけど,ドンっていうすごく大きな音がして,本当に隕石が落ちたと思って---.
今度はテレビから飛び込んでくる自分の地元の映像がすごくショッキングで,亡くなった方もいて,なんか,無差別だな,と思ったんです.
自分でもおかしくなかったし,でも,自分はたまたま家族全員が生きていて,今,暖かいお風呂に入って,布団で寝てるっていうことが,なんでしょう----罪悪感というか,何だろ----,申し訳ないなっていう気持ちがありました」
それ以来,震災の経験を積極的には話してこなかったという北川さん.そんな自分を変えるきっかけにしたいと,取材を受けることにしました.
今回,番組では,北川さんのように,あの日こどもだった,およそ600人に,初めての調査を行いました.
子どもから大人へ,そして,親へ.
25年の歳月を経て,多くの人たちが,今,自らの言葉で,震災の経験を語り始めています.
「今回,私も,ふるさと,神戸を訪ねました.当時の子供たちは,今,震災をどのようにとらえているのでしょうか?
『震災を生きる力に変えてきた』.そう答えた人たちがいました」
母と弟を亡くした男性「人との出会いの大切さであったりとか,そういうことを震災が教えてくれたなと思って,自分の人生にいかしていかないといけないなって」
「震災を思い出すとつらい.それでも忘れることはできない」
相反する気持ちを抱えている人たちもおます.(映像:医療現場で働く看護師の方)
母を亡くした女性「あの時にあの地震があったということは,私と一緒にずっとそばで大きくなっているというか-----,切り離されへんよな」
小さな胸に悲しみを抱え込んでいた,あの日.そして,生きる希望をつかんだあの時.
「大震災の子供たち」25年の心の軌跡です.
http://www6.nhk.or.jp/special/backnumber/index.html
去年10月,NHKは社会心理学の専門家とともに,震災から25年で,初めての調査を行いました.対象は,当時小中学生だった子供たち.591人から回答を得ました.
震災に対する心境の変化,進学や就職への影響.住む場所の選択への影響などについて聞いたところ,専門家も予想していなかった結果がでました.
心境の変化について聞いた答えです.
震災の体験を前向きにとらえている人がおよそ6割に上りました.
しかも,家族や住まいを失うなど,被災程度が高い人も,同じ傾向だったのです.
木村玲欧教授(兵庫県立大学)「震災の体験というのは,非常につらい悲しい.体験としてはマイナスの意味を持つものも多いが,それが,この25年の間に,何かのきっかけ,原因で,プラスのほうに,肯定的に,その体験を自分の人生の中で捉えている.
それは,非常に驚きでした」
震災の経験を前向きに捉えているという人たち.なぜ,そう思えるようになったのでしょうか.
『精神的に成長できた』『生きることに意味がある』といった項目全てに,『そう思う』と答えた人がいました.
長谷川元気さん.33歳です.
長谷川さん「古いですね.校舎が.建て直されてないものな」
この学校に通っていた小学校2年生の時に被災し,2人の家族を亡くした元気さん.幼い身に震災はあまりにもつらい体験でした.
(写真):母親の規子さん(享年34歳),三兄弟の末っ子翔人くん(享年1歳)です.
(ビデオ映像) 翔人くん「や〜いや〜い.余計言ったらね」
震災の前の翔人くん.撮影したのは母の規子さんです.
責任感が強く,しつけには厳しかった母.褒めてくれるときの優しい表情が元気さんは大好きでした.
そして,あの日,震災が全てを変えました.
全壊した自宅から,父親,元気さん,一つ下の弟は,外に出られましたが,規子さんと翔人くんは埋まったままでした.
長谷川さん「きっと,お母さんと翔人くんは生きていると,そう,自分に言い聞かせながら待っていましたね.
父が目に涙を浮かべながら,“あかんかったわ”と言ったときには,すぐに状況は分かりました.だから,その瞬間に,泣き崩れるような感じでしたね」
しかし,当時の元気さんは,張り裂けそうな思いを,1人,その小さな胸に抱え込んでいました.
(映像:長谷川さん宅)
父親(フライパンで調理しながら)「なすびは元気が好きやから,小さいころは,なすびが好きだということも知らなかったし---」
父の博也さんです.
震災後,仕事をしながら,全ての家事をこなし,子供たちを育ててきました.
父・博也さん「ミートソースはたっぷりです」
長谷川元気さん「おいしそう」
長谷川元気さん「父はやっぱり僕たち,弟と僕たちのことを考えて,色々してくれているのは分かっていたので,(悲しむところを)見せたら,やっぱり心配するじゃないですか.ああ,やっぱり悲しいんやとか,それを見た人がやっぱり困るというか,どうしようもないじゃないですか.
それを思ってあんまり見せることはなかったかなと思いますね」
取材者「おとうさんにも?」
長谷川さん「おとうさんにも.はい」
元気さんが悲しみを表に出さないようにしていた姿を,博也さんも良く覚えているといいます.
父・博也さん「お互いに,うすうす,こうやろうなって思ってても,積極的にそういうのは,具体的なことは口にしないというか,自然と口にしないような雰囲気になってたからね」
この頃,元気さんが書いた作文です.
(映像:博也さん2年生の時の作文)
“「おとうさ〜ん.だいじょうぶ」ってぼくがよぶと,おとうさんも
「げんきーだいじょうぶか」といいかえした.”
自分が助かるまでの状況がつづられたあと,作文は,唐突なひと言で終わります.
“たつのにいって,かそうしました”
母と弟に何が起きたのか,これ以上のことは,書かれていませんでした.
人前では,悲しみを出さずにいた,元気さん.
つらい気持ちが抑えられなくなると,校庭の隅に隠れて泣いていました.
そんな元気さんを,そっと見守っていた人がいます.
当時の担任,酒井久栄(ひさえ)先生です.
(映像:自宅前で長谷川さんを出迎える酒井先生)
突然,母を弟を失いながら,悲しみに耐えている,僅か8歳の教え子.
1人で泣いている元気さんを見つけると,そっと近づきました.
長谷川さん「酒井先生が,僕の隣に座って.
来てくれると,よけいに泣いてしまって.
僕がずっと泣いているのを,泣きやむまで,背中をさすりながら隣に座っていてくれた」
酒井先生「本当に,あの,つらいものがあったと思います.それを,こみ上げてくる気持ちも,元気くんがぐっとおさえて--.
彼のそういう気持ちを見守ってあげたい,支えてあげたいっていうのが一番の気持ちです」
震災以降,人知れず抱え続けていた思いを,ようやく打ち明けることができたのは,中学1年生の時でした.
その相手は,テレビ局のディレクターでした.
(テレビ映像)
テレビの中の元気くん「そういう,起きたら,なんか---知らんときにいるみたいな,そんな感じで---」
大阪の民間放送局に勤める迫川(さこがわ)緑さんです.
家族の密着取材をしていました.
母や弟の死に向き合いながら,家族の日々を記録していた迫川さん.映像には,初めて胸の内をさらけ出したとという場面が残されていました.
(当時の長谷川家の映像 関西テレビ)
迫川さん「お母さんがいないなって思ったときはある?」
元気さん「(夢の中で)普通に,なんか,地震前の家にいて “ああ地震なんかなかったんかな” みたいな.(母と弟の)夢を見たときは,かなり涙ぼろぼろ流しているときとかあんねんけど」
長谷川元気さん「自分もやっぱり誰かに伝えたかった.ためこんでいたわけじゃないけれど,ずっと心の中にしまっていたことを,何か伝えたいという気持ちもあったのかなっていうのは,はい,今になっては思いますけどね」
迫川緑さん「知り合いじゃないから言えたんだろうな,と思うんですよ.
例えば,お父さんに言ったら,お父さんがまた悲しむじゃないですか.なんとなく,知らない人の方が言いやすかったのはあるかもしれないな,と思いますね」
すこしずつ,気持ちを表に出すようになった元気さん.
小学校の担任,酒井先生は,その成長を,そっと見守り続けていました.
折に触れ,元気さんを気遣う手紙を届けていました.
(映像:とってあった手紙を見返す元気さん)
家族も傷ついた中,周囲の大人たちの存在が自分を支えてくれたと元気さんは感じています.
長谷川さん「人との出会いの大切さであったりとか,そういうことを震災が教えてくれたなと思って.
自分の人生に活かしていかないといけないなっていう.それが,僕が(震災と)向き合ったことで,見えてきたことかなと思っているんですけど」
大人になり,元気さんが就いた仕事は,小学校の先生.
あの時の酒井先生と同じように子供たちと向き合う日々を送っています.
(映像:教壇の上の長谷川元気先生)
http://www6.nhk.or.jp/special/backnumber/index.html
「思いやりとは,言葉にすると---」
つらい気持ちを打ち明けられなかったあの時.
今では,少しでも知ってもらいたいと思えるようになりました.
「先生は震災で,お母さんと,当時一歳半だった弟を亡くしました.
で,当時小学校2年生でした.そのとき,とても後悔をしました.
どんな後悔をしたかって言うと,もっと,お母さんの喜ぶ顔が見たかったなあと.もっと弟の翔人の喜ぶ顔が見たかったなあ.と思いました.
みんなは,今,自分の周りの人,家族や友達や親戚の方でもいいです.今,自分の周りにいる人のために何ができるかな,というのを考えて,ノートに書いてほしい」
震災を経験したからこそ,今の自分がある.
元気さんは,各地で自らの体験を語るようになっています.
周囲の支えを受けて,震災のつらさを打ち明けられるようになった長谷川元気さん.
子どもの頃,同じ経験をした人が数多くいることが調査からも明らかになりました.
被災経験が高い人ほど,家族にはつらい体験を打ち明けていませんでした.
そうした人が,心境の変化のきっかけとして挙げたのが,近所の大人や学校の先生など,家族以外の大人の存在でした.
一方,調査では,震災の体験を前向きに捉えていない人が,今も,4割いることがわかりました.
(続く)