「美帆は一生懸命生きた」 相模原殺傷事件 美帆さんの遺族手記全文
毎日新聞2020年1月8日 03時02分(最終更新 1月8日 06時10分)
「美帆は一生懸命生きた」 相模原殺傷事件 美帆さんの遺族手記全文 - 毎日新聞
相模原殺傷事件で犠牲になった女性(当時19歳)の母親が娘の名前を「美帆」と公表し,思いをつづった手記を公表した.全文は以下の通り.
大好きだった娘に会えなくなって3年が経(た)ちました.時間が経つほどに会いたい思いは強くなるばかりです.会いたくて会いたくて仕方ありません.
本当に笑顔が素敵でかわいくてしかたがない自慢の娘でした.
アンパンマン,トーマス,ミッフィー,ピングー等のキャラクターが大好きでした.
音楽も好きでよく“いきものがかり”を聞いていました.特に“じょいふる”が好きでポッキーのCMで流れるとリビングの決まった場所でノリノリで踊っていたのが今でも目に浮かびます.
電車が好きで電車の絵本を持ってきては指さして「名前を言って」という要求をしていました.よく指さしていたのは特急スぺーシアと京浜東北線でした.
ジブリのビデオを見るのも好きでした.特にお気に入りは魔女の宅急便と天空の城ラピュタ.他のビデオも並べて順番に見ていました.
自閉症の人は社会性がないといいますが,娘はきちんと外と家の区別をしていて,大きな音が苦手でしたが,学校ではお姉さん顔をしてがんばっていたようでした.
外では大人のお姉さん風でしたが,家では甘ったれの末娘でした.児童寮に入っていた時,一時帰宅すると最初のうちは「帰らない,家にいる」と帰るのを拒否していました.写真を見せて「寮に帰るよ」と声かけすると,一応車に乗り寮の駐車場に着くものの車からは出てきません.「帰らない」と強く態度で表していました.パニックをおこして大変だったけれどうれしい気持ちもありました.2年くらいは続いていましたが,それ以降は自分は寮で生活するということがわかってきたようで,リュックをしょって泣かずに帰っていくようになりました.
親としては淋(さび)しい気持ちもありましたが,お姉さんになったなあといつも思っていました.
月1くらいで会いに行き,コンビニでおやつと飲み物を買い一緒にお庭で食べるのですが,食べおわると部屋にもどることがわかっていて,食べている間中「歌をうたって」のお願いをされ,よくアンパンマンの“ゆうきりんりん”とちびまるこちゃんのうた,犬のおまわりさん等うたっていました.
自分の部屋にもどる時も「またね」と手を振ると,自分の腰あたりでバイバイと手を振ってくれていました.
美帆はこうして私がいなくなっても寮でこんなふうに生きていくんだなと思っていました.人と仲良くなるのが上手で,人に頼ることも上手でしたので職員さん達に見守られながら生きていくのだなと思っていました.
言葉はありませんでしたが,人の心をつかむのが上手で,何気にすーっと人の横に近づいていって前から知り合いのように接していました.
皆が美帆にやさしく接してくれたので人が大好きでした.人にくっついていると安心しているようでした.
美帆は一生懸命生きていました.その証を残したいと思います.
恐い人が他にもいるといけないので住所や姓は出せませんが,美帆の名を覚えていてほしいです.
どうして今,名前を公表したかというと裁判の時に「甲さん」「乙さん」と呼ばれるのは嫌だったからです.話しを聞いた時にとても違和感を感じました.とても「甲さん」「乙さん」と呼ばれることは納得いきませんでした.ちゃんと美帆という名前があるのに.
どこにだしても恥ずかしくない自慢の娘でした.家の娘は甲でも乙でもなく美帆です.
この裁判では犯人の量刑を決めるだけでなく,社会全体でもこのような悲しい事件が2度とおこらない世の中にするにはどうしたらいいか議論して考えて頂きたいと思います.
障害者やその家族が不安なく落ち着いて生活できる国になってほしいと願っています.
障害者が安心して暮らせる社会こそが健常者も幸せな社会だと思います.
2020年1月8日
19才女性 美帆の母
関連記事:
美帆の名を覚えていて・自慢の娘…相模原殺傷の初公判前に母親が手記
読売新聞オンライン
美帆の名を覚えていて・自慢の娘…相模原殺傷の初公判前に母親が手記 : 国内 : ニュース : 読売新聞オンライン
NHK 19のいのち
NHK NEWS WEB
障害者殺傷事件 被告 殺害など認めるも法廷で暴れる | NHKニュース
障害者殺傷事件 被告 殺害など認めるも法廷で暴れる
2020年1月8日 16時47分
相模原市の知的障害者施設で入所者19人が殺害されるなどした事件の裁判が始まり、被告は殺害などについて認めましたが、直後に暴れだし、午後は被告がいないまま審理が進められました。検察が被告には完全に責任能力があったと主張したのに対して、被告の弁護士は無罪を主張しました。
(以下略)