老後は年金プラス二千万円が必要という報告書.問題は老後の生活資金について,国が国民に指示を出すこと自体にある.しかも投資をせよというのだ.投資をするかどうかは,国が指示することではない.高齢になってからの生きる世界は,何十年間かによってつくりあげられた,かけがいのないものだ.そういうものに対する,最近の流行語で言えばリスペクトがない.この報告書の不快なもうひとつの理由は,人間をお金のために働き,お金を貯める動物として扱っていることだ.「老後不安で投資をあおる不快さ」内山 節 東京新聞

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老後不安で投資をあおる不快さ

内山 節

東京新聞 2019年(令和元年) 6月30日

 政治の世界から流れてきた,老後は年金プラス二千万円が必要という報告書は,多くの人たちに不快感を与えたことだろう.本当に二千万円必要かどうかが問題なのではない.年金といっても受け取れる額はさまざまだし,住んでいる場所や暮らし方によっても,老後に必要な資金は変わる.そんなことは誰もが知っていることであり,自分の場合どうなのかは,それぞれが考えているだろう.

 

 問題は老後の生活資金について,国が国民に指示を出すこと自体にある.しかも二千万円をためるために,貯金ではなく投資をせよというのだから,そういうことを指示して平気でいられる精神構造にあきれてしまう.現在投資をしている人たちの約半数が,損失を出していることは無視するとしても,投資をするかどうかはそれぞれの考え方であり,国が指示することではない.

 

 私たちは誰もが自分たちの生きる世界をもっている.高齢になってからの生きる世界は,それまでの何十年間かによってつくりあげられた,かけがいのないものだ.そういうものに対する,最近の流行語で言えばリスペクト(敬意,尊重)がないのである.

 

 それは今の政治に温かさがないことと結びついている.仮に年金だけでは多くの人たちが暮らせないのであれば,それでも何とかできるように,高齢者が働きやすい環境を整えたり,支え合える社会や社会保障のかたちを考えるのが政治の役割だろう.そうではなく,「年金だけでは足りないから投資をしろ」と言うだけなら,政治はいらない.

 

 この報告書の不快なもうひとつの理由は,人間をお金のために働き,お金を貯める動物として扱っていることだ.若いうちから老後のために貯蓄をし,投資をおこなう.この発想からみえてくるのは,現役の人間も,老後を迎えた人々も,国民はお金だけで生きている動物だと見下す態度である.それぞれの人々が築き上げてきたかけがいのない人生に対するリスペクトが,あまりにも欠けている.

 

 今日の日本の政治を覆っている最大の問題点は,尊重する精神の欠如なのである.何十年も生きてきた人間に対する敬意や尊重の欠落が,今回の報告書を生んだ.さまざまな規制を緩和して非正規雇用をふやしたのも,人間や労働に対する尊重のなさだ.沖縄の辺野古の基地建設では,沖縄の人たちの意思を尊重することなく,力で押し切る政治をすすめている.

 

 現在の政府から,自然に対する尊敬の言葉を聞いたことはないし,原発事故が起きても原子力発電を推進しようとする姿勢からは,この社会で生きているすべてのものへの尊敬が感じられない.

 

 日韓関係でも,韓国政府の対応の問題点はあるにしても,植民地化されることによって発生した韓国の人々の気持ちを,もう少し尊重する精神があったら,ここまで深刻化しなかったかもしれない.あるいはロシアの現実を尊重する精神がなかったから,北方四島をめぐる領土帰属交渉も,ロシアに冷たく拒否される結果を招いたのではなかったか.

 

 国民一人一人の人生を尊重する精神をもたずに,老後不安を投資の活性化に利用とする.そのことに表れている国民や他者に対する尊重,敬意の欠如が,今日の傲慢(ごうまん)な政治を生み出している.私には,そう思えてならない.

(哲学者)

2019・6・30

 

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