視点 沖縄から
「琉球処分」から140年 「遠い記憶」ではない
神奈川大准教授 後田多 敦(しいただ あつし)さん
「亡命」という単語から,どんな人物や出来事を思い浮かべるだろうか.そして,それは身近な問題だろうか.
近代沖縄からは,百人を優に超える亡命者が出ている.一般的に,亡命は政治的な事情などにより政治家や学者などが他国に逃れることとされる.
近代沖縄では一八七九(明治十二)年の「琉球処分」が契機で,主な亡命先は清国だった.今年はそれから百四十年である.
明治日本は琉球国の王権を簒奪(さんだつ)して編入,沖縄県を設置した.明治政府は.その事業を琉球処分と名づけている.
この「処分」に抗(あらが)う琉球人の活動が,国内外で展開された.
処分された琉球を脱出した人々は,清国の福州や天津,北京などで,日本の暴虐を訴え,琉球復興への支援を求めた.
琉球史ではそれを「琉球救国運動」と呼ぶ.東アジアにおける「抗日」運動の先駆けである.
なぜ抵抗運動の一つの形が亡命だったのか.
簡単にいえば,東アジアの伝統的国際秩序だった冊封(さくほう)関係における琉球国の歴史的蓄積だ.中国との公的関係は,明を建国した朱元璋(しゅげんしょう)の求めで一三七二年に始まり,およそ五百年間に及んだ.
冊封関係は,琉球国にとって国際主体としての証しの一つだった.そして,その中で琉球人の拠点やネットワークが蓄積されていた.
琉球処分の際,旧琉球国中枢からも多数の亡命者が出た.その一人が旧三司官(さんしかん)の富川盛奎(せいはい)(中国名 毛鳳来)である.
三司官は琉球国を担う官員の最高職位(三人)で,富川は最後の一員だった.処分後,富川は一時県庁顧問を務めるが,一八八二年に仲間を伴って亡命.現地の琉球人と合流し,救国運動に取り組み九〇年に清国で没している.
この時期,朝鮮半島では壬午軍乱(一八八二年七月)が起きて,日本公使館が襲撃されたこともあり,富川の亡命は明治政府に衝撃を与えたようだ.在京の新聞でも話題になっていた.
沖縄からの亡命者はその後も続き,その全貌はいまだ明確ではない.
昨年は処分した側の明治維新百五十年の節目で,政府主導も含め各種の催しがあった.批判の声も挙がり低調にも見えたが,それでも祝賀ムードも漂った.
しかし,沖縄での琉球処分百四十年は祝賀にはならない.なぜなら,沖縄は処分され,滅亡し亡命者をも出さざるをえなかった側だからだ.
沖縄人が縁故を遡ると,その多くは処分や抗いの記憶にたどりつく.亡命者資料を繰ると,私自身も生まれ育った沖縄の地域名やゆかりの人名に出会うことも少なくない.
沖縄そのものが処分された結果であり,遠い記憶ではないのだ.
そして.百四十年を経た今でも,処分される側とする側の構図は,それほど変わっていない.