古事記神代編の冒頭部,ウマシアシカビヒコヂ,アメノトコタチの二柱の神があらわれる様子を形容する言葉
「泥の中から葦牙(あしかび 葦の芽)のごとく萌えあがってきた」
の中で使われた“アシ 葦”.
次にアシが出現するのは,「葦船」.
最初の子生みに失敗したイザナギ,イザナミは,お生みになったヒルコ(水蛭子)を,葦船に乗せて流し棄ててしまいます.
それなのに止めることはできなかったのじゃな,そのまま秘め処(ひめど 原文は久美度⇒寝室と解する説もあり)にまぐわいなされての,なんと,お生みになった子は,骨なしのヒルコよ.この子は葦船に入れて流し棄ててしまわれた----.
[三浦祐介訳 口語訳古事記]
このときに使われた葦船にどのような意味があるのは,古事記初読の私には見当がつきません.
葦船は「最も古い船の形式の一つ」とされ,パピルスで作ったエジプトの船,トトラで作った南米チチカカ湖の船がよく知られているそうです.
古代エジプトの船、ナイルの小船からクフ王の埋葬船 – Hi-Story of the Seven Seas チチカカ湖 | カムナ葦船プロジェクト
しかし,古事記のこの場面の葦船の実体は不明とのこと(ブリタニカ国際百科事典)
テキストとして使わせてもらっている口語訳古事記の著者三浦祐介氏も,この葦船については何も触れていません.特に意味はないのかもしれませんが,この初めての子生みは,注釈をつけるべき点が多々あり,葦船にまで触れる余裕のない場面でもあります.
この場面に至る経緯は次の通り.葦船から離れてしまいますが.
イザナミ・イザナギは,アメノミナカヌシら三柱,五柱の別天つ神に続く神代七代の最後尾にあらわれる兄妹.「天つ神の,もろもろの神がみのお言葉で」,漂っている地(くに)を修めまとめ固める役を委ねられます.
2人は,アメノヌボコ(高天の原にある立派な矛)を使ってオノゴロ島を生み出し,そこに天候(あも)りなされ,天の御柱(世界の中心を象徴する柱)・八尋殿(やひろどの 壮大な御殿)を見立てます.
そして,イザナギが問うには,「我が身は,成り成りして,成り余っているところがひとところある.そこで,このわが身の成り余っているところを,お前の成り合わないところに刺しふさいで,国土(くにつち)を生み成そうと思う.生むこといかに」
「それは,とても楽しそう」
「それならば,われとお前と,この天の御柱を行きめぐり,逢ったところで,ミトノマグハイをなそうぞ」
めぐり逢われたところで,
「ああ,なんとすてきな殿がたよ」
「なんとすばらしいオトメなのだ」
続けてイザナギは,イザナミに告げます.「おなごが先に求めるのはよくないことよ」
それなのに止めることはできなかったのじゃな,そのまま秘め処(ひめど 原文は久美度⇒寝室と解する説もあり)にまぐわいなされての,なんと,お生みになった子は,骨なしのヒルコよ.この子は葦船に入れて流し棄ててしまわれた----.
三浦氏が最も長文の脚注をつけているのが,“ミトノマグハイ”:
“ミトは御処の意で,すばらしいところ.マグハイは交叉させること.性交をあらわすもっとも美しい言葉”.
続けて,『兄妹始祖神話』について解説しています.
世界の始まりを語るとき,一対の男女によって世界や人間が生み成されたとする語り方は普遍的で,この男女を兄と妹とするのが兄妹始祖神話.世界的に例が多いそうです.
しかし,社会を成り立たせる大前提としながら,社会的にはタブー.脚注では「タブー性が抱え込まれる」という表現が使われています.
“ヒルコ”にも脚注があり:
“原文に「水蛭子」とあり,骨がなく,人や動物の体に吸盤で吸いついて血を吸うヒルのような子をいう.ここで最初の子生みに失敗すると語るのは,文脈的にみれば,女であるイザナミが先に物を言った(男尊女卑の考え方)ことに対する罰と読める.
しかし,本質的には,兄と妹としてのタブーを犯した交わりに原因があったのだろう(古事記は,兄妹相姦の影を薄めようとしている)”