七夕の日,ひっそりと,ある30代の障害のある女性が横浜市内のグループホームに入所した. 二年前に一九名もの障害者が殺害された事件のあった津久井やまゆり園(相模原市)に入所していた女性だ.今,ようやく二人目の地域移行である.「穏やかな素顔を取り戻しました.言葉と一緒に」 津久井やまゆり園での彼女の車いすのベルト固定は「身体拘束」であった.渡邉 琢 「障害者の傷、介助者の痛み」

渡邉 琢 「障害者の傷、介助者の痛み」 青土社  2018/12/10

(帯の言葉: 

 関係性にとまどいながら,つながり続けるために  

 相模原障害者殺傷事件は社会に何を問いかけてきたのか.

 あらためて,いま障害のある人とない人がともに地域で生きていくために何ができるのか.

 障害者と介助者が互いに傷つきながらも手に手を取り合ってきた現場の歴史をたどりながら,介助と社会の未来に向けて言葉をつむぐ)

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あとがき より

最終章「言葉を失うとき」(14章)の冒頭で紹介した,津久井やまゆり園に入所していた女性には後日談がある.

先日,次のような短文をある雑誌に寄稿したので,それをここに再掲しよう.

 

「かけがえのない二歩目ー津久井やまゆり園の事件に寄せて」

 今年(二〇一八年)の七月七日,七夕の日,世間に騒がれることなくひっそりと,ある30代の障害のある女性が横浜市内のグループホームに入所した.

 二年前に一九名もの障害者が殺害された事件のあった津久井やまゆり園(相模原市)に入所していた女性だ.事件のときは,彼女は目立ちにくい個室で眠っていたそうで,犯人はたまたまその部屋の前を通過したため,難を逃れたらしい.

 

 彼女はここ数年,ほとんど言葉を失っていたらしい.ごく少数の職員や知人の名前をときどき発する以外,ほとんど言葉を話すことはなかったそうだ.

 

 数か月前,津久井やまゆり園芹が谷園舎というところで,彼女に会う機会があった.

そのときも,心ここにあらずという感じで,こちらからの語りかけにかすかに反応する以外は,特に言葉や身振りでの返事は返ってこなかった.

 

 津久井やまゆり園の事件で,犯人は「話せない人」「意思疎通のとれない人」を狙って殺害したと言われているから,もしかしたらこの前の女性が狙われていたかもしれないと思うと,ぞっとした.

 

 ご家族の話によると,彼女は小さい頃からほとんど話すことがなかったけれど,小学校三,四年のころから,「これなあに」などの言葉を少し話しはじめたそうだ.

英語で,What's your name? と問われ,My name is ○○と答えたこともあったそうだ.

十代の途中で施設に入らざるをえない状況になったそうだが,成人式の際は,家族や施設職員の前で「明日も大事にしてください」と述べたらしい.それがピークで,その後だんだん言葉がしぼんでいったようだ.

 

 その彼女が,事件からまもなく二年経つ七月に入り,横浜市内の社会福祉法人の支援を受けて,施設を出て地域での暮らしを開始することになった.

 

 津久井やまゆり園から地域生活へと移行した人は,これで二人目だという.一人目はその一ヶ月ほど前の五月終わりに,グループホームでの暮らしを開始した.

 今,ようやく二人目の地域移行である.津久井やまゆり園には入所者が一〇〇名以上いるが,二年たってようやく二人目.かけがえのない一歩目,二歩目の背後に,歩み出すことのない多くの人たちの影がある.

 

 世間の人は今,津久井やまゆり園の入所者たちについて何を思っているのだろう.やまゆり園だけでなく,多くの障害者入所施設や精神病院の閉鎖病棟で,話し相手もおらず世間から忘れられ沈黙に沈んでいる人たちについて何を思っているだろう.

 

 七月にグループホームに移った彼女は,「お母さん,大好き」などの二語文を話しはじめてるらしい.

支援している社会福祉法人の方によれば,

「施設にいた当時の激しいチックに歪んだ表情からは想像できない穏やかな素顔を取り戻しました.言葉と一緒に.しかも言葉は日々増えているようです」

とのことだ.

 

 人知れず沈黙に沈んでいる人たちに思いをはせ,語りかけるように努めほしい.失われた言葉や表情はそのようにしてはじめて取り戻されていくのではなかろうか.(『部落解放』二〇一八年九月号,解放出版社

 

 施設を出て穏やかな表情と言葉を取り戻しつつあるというこの女性は,松田智子さんという.

本書の2章の註(5)や14章冒頭でも,事件の後,縁あってご家族と知り合い,津久井やまゆり園において彼女に面会したことに触れているが,その時は彼女は車いすにベルト固定されて座っており(座らされており),そのベルトを外すと彼女は衝動的に立ち上がり歩き始めた.

車いすを使っていたのだが,彼女はもともと歩ける人だった.

 

 相模原事件から二年目に近いNHKスペシャル「“ともに,生きる”障害者殺傷事件2年の記録」(二〇一八年七月二十一日)の中では,グループホーム移行後の彼女が登場していたが,津久井やまゆり園での彼女の車いすのベルト固定は「身体拘束」であったと報道されていた.

ほぼ毎日,長い日は十二時間以上の身体拘束であり,「見守りが困難」なためという理由からだった.

津久井やまゆり園における殺傷事件の容疑者は「車いすに一生縛り付けられている気の毒な利用者も多く存在し」,そのために犯行に及んだ趣旨のことを述べていた.

だが,もともと歩けていた彼女が,いったいなぜ「車いすに一生縛り付けている」かのような処遇を受けていただろうか.

「見守りが困難」という支援する側の事情ではないだろうか.

もし彼女らがそうした処遇の中で気の毒な不幸な存在とみなされるとしたら,それは不適切な支援環境や社会的支援の不足のゆえではないだろうか.

ここにおいても「原因と結果」(本書三七三頁参照**)が取り違えられてはならないだろう.

 

 その松田さんが新しいところでどう過ごされているのだろうと思い,今から一ヶ月ほど前,彼女が日中通っているというデイを訪問し,彼女に会いに行った.

彼女のお姉さんと一緒に行ったのだが,玄関に入ると,彼女はうれしそうに自分の足で歩き,迎えに来てくれた.ただ,一度しか合ったことないぼくらのことを見ると,いくらか警戒し,多少動きが硬くなったように思う.

 

 それでも,彼女の穏やかな有様にとても心うれしくなった.

津久井やまゆり園での面会は散歩も含めて三〇分程度も叶わなかったが,今回の訪問においては,二時間ほど,大きめの窓から初秋のおだやかな日差しが差し込む部屋の中で,ゆっくりまったりと時間を過ごすことができた.

やまゆり園では出入り口のいたるところに鍵があり,職員がその都度鍵の開け閉めをしていたが,今回はそうした鍵のある環境ではなかった.

環境に違いによって,こうも人との出会いは穏やかになるものなのか,そんな感じを受けた.

 

 彼女の口からは,「いないないの,ないの.みんないないの-----」というような言葉がくり返し口をついて出ていた.

それは自分の中でなにかを反芻しているような感じのつぶやきで,その意味するところはなかなかぼくにはわからなかった.けれども,ぼくはなぜかその言葉を聞きながら,「そうかぁ,いないいないのね.みんないないのね.みんないなくなったのね.さみしかったんだね.もうさみしくないからね」というような返事をしていた.

この応答が的外れだった可能性ももちろんある.それでも応答を重ねる中で,彼女の緊張感も解けていったように思う.ゆったりとそんなやりとりをしながら,彼女との時間を過ごしていた.

(以下略)

 

**

プリーモ・レーヴィ強制収容所生存者)は強制収容所にいる人たちを,収容所の外の民間人の人たちがどう見なしていたかについて,次のように述べている.

 

 実際,民間人から見れば,私たちは不可蝕賎民だった.-----

彼らは,これほどひどい生き方を強いられ,こんな状態に陥るには,よく分からないが,よほど重い罪を犯したに違いない,と多かれ少なかれ考えていた.

私たちがしゃべるいろいろな言語は彼らには分からないので,動物が吠えるように異様に響く.また彼らは,私たちのおぞましいほどの奴隷状態を見る.------

原因と結果を混同して,私たちはこうしたおぞましさにふさわしい存在だと判断してしまう.

(レーヴィ 2017:156)