天智天皇2 誰もが知る天皇ですね.小学生でも必ず教わり,しかも印象深い.明治以降の天皇を除いて,知ってる天皇名トップかもしれません.大化の改新だけではなく,近江大津京での戸籍制定(庚午年籍),近江令制定は,日本統治の礎になったとされています.和歌もかなりの高評価を受けています.当時の人にとっても,百人一首の巻頭歌は,天智天皇でなくては収まりがつかなかったのでしょう.

昨日から取り上げている天智天皇

百人一首の巻頭に置かれている天智天皇御歌は,万葉集・巻十-2174の詠み人知らずの歌が原歌とされています.

 

万葉集の作者不明歌が,後世口づてに伝えられた中で細部が洗練され,理想的為政者が詠むであろう歌の内容から,天智作として広まったのかもしれません.

平安朝の天皇の直系の祖・天智天皇を尊ぶ気持ちと理想的為政者が詠むであろう歌の内容から,天智作と伝承された.と有吉保氏は推定しています(百人一首 全訳注 有吉保 講談社学術文庫

yachikusakusaki.hatenablog.com

今日は,この二つの歌をならべ,(「写すだけ」ですが)比較してみたいと思いましたが,

その前に天智天皇について改めて整理してみました.

当時の人にとっても百人一首の巻頭歌は天智天皇でなくては,収まりがつかなかっただろう事が,素人目にもよく分かります.

 

天智天皇

本の学校で学んだ者なら,誰もが知る天皇ですね.小学生でも必ず教わり,しかも印象深い.明治以降の天皇を除いて,知ってる天皇名トップかもしれません.

 

古代史の出来事で最も有名と思われる大化の改新の実行者としての中大兄皇子

天皇中心の政治を取り戻し改革を行った天皇

白村江の戦いに敗れ,日本の防衛に尽くした天皇

水時計までも彼に時代に.

近江大津宮へ遷都し,近江大津宮は,私も含め,忘れている方々が多い都),その地で更に進めた改革

近江令を制定

:初めての全国的戸籍をつくり

これらは,奈良・平安時代の日本政治制度の礎となったといえるようです(参考文献 林博通 大津京万葉集 新樹社)

ただし,志半ばで崩御後,後継と考えた大友皇子大海人皇子天武天皇)との戦い(壬申の乱)に敗れ,天智天皇の改革の完成は,天武・持統天皇の代となります.

 

政治上だけではなく,万葉のヒロイン額田王を巡っても,大海人皇子との間であれやこれや.しかし,歌姫額田王の活躍は,天智天皇の安定した治世とバックアップあってのこと.

 

ご自身の和歌だってすてたものではない,どころか,かなりの高評価を受けています.

瑞垣久氏のサイト(千人万歌/天智天皇 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tennji2.html )によれば,

日本書紀万葉集に歌を残す.万葉に御作と伝わるのは四首.勅撰集では後撰集に一首,新古今集に一首,玉葉集に一首,新千載集に一首採られている.後撰集の『秋の田の…』の歌は百人一首にも採られた」

 

以下に,

天智天皇の簡単な年譜と飛鳥・奈良時代天皇系図を掲載.

その後に,百人一首巻頭歌と万葉集詠み人知らずの歌を比較(写すだけですが)してみます.

また,付録として万葉の一首 

“渡津海(わたつみ)の豊旗雲に入日さし今夜の月夜(つくよ)清明(さや)けくこそ”

を取り上げ,斎藤茂吉氏の評を転載.

 

    天智天皇中大兄皇子)年譜

 西暦

   元号/天皇

年齢

     事項

 626

   /推古天皇34年

  0

生誕(父・舒明天皇,母・皇極天皇

 629

   /舒明天皇元年

  3

舒明天皇即位

 630

   /舒明天皇2年

  4

初めての遣唐使派遣

 642

   /皇極天皇元年

 16

皇極天皇即位

 645

 大化元年/(孝徳天皇

 19

乙巳の変蘇我入鹿を暗殺,蝦夷自害)

大化の改新孝徳天皇即位,中大兄皇子皇太子

 650

 白雉元年/(孝徳天皇

 

 

 655

   /斉明天皇元年

 29

斉明天皇即位(皇極天皇重祚

 660

   /斉明天皇6年

 34

百済滅亡

漏刻(ろうこく 水時計)作成

 661

   /斉明天皇7年

 35

斉明天皇崩御中大兄皇子称制

 662

   /天智天皇元年

 36

 

 663

   /天智天皇2年

 37

白村江の戦い.唐・新羅に大敗

 664

   /天智天皇3年

 38

唐使来朝,水城(福岡県)築城,

 665

   /天智天皇4年

 39

大野城(福岡県)築城

 667

   /天智天皇6年

 41

大津宮遷都

 668

   /天智天皇7年

 42

近江令制定(現存せず,資料も乏しい),天智天皇即位 大海人皇子・皇太弟

 669

   /天智天皇8年

 43

中臣鎌足藤原鎌足)死去

 670

   /天智天皇9年

 44

庚午年籍作成:日本初の全国的な戸籍

 671

   /天智天皇10年

 45

大友皇子を初の太政大臣に任命

 672

   /天武天皇元年

弘文天皇:明治3年追諡)

 46

天智天皇崩御

壬申の乱/大友皇子自縊

大海人皇子 飛鳥浄御原宮建設

 673

   /天武天皇2年

 

天武天皇即位

ウィキペディア

http://www.youce.co.jp/personal/tenji-tennoh.html

https://history.gontawan.com/document-tenno.html

等より

f:id:yachikusakusaki:20190103155947j:plain

ウィキペディア

天智天皇 系図 - Google 検索

http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter1-6.html

より

 

百人一首 1

秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ 天智天皇

出典 後撰集 秋中302

f:id:yachikusakusaki:20190102025026j:plain

http://www.samac.jp/search/collection_detail.php?from=uta_list&item_id=1

 

百人一首 小池昌代 訳 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集02)

 

秋の田の かたすみでにある 仮小屋で

わたしは 夜通し番をする

屋根を葺いている苫が 粗く編んであるものだから

夜露が 隙間から 滴(したたり)り落ちてきて

わたしの袖を 濡(ぬ)らし続けるのだ

 

仮小屋の屋根は,菅(すげ)や茅(かや)で編んだ茅葺き.

目が粗いのは,収穫期にあわせて,とりあえず作った仮小屋の庵(いおり)だからか.それとも時間がたって,だんだんと編み目がゆるくなったからなのか.粗末な作りなので,隙間から夜露が漏れ落ちてきては,小屋に泊まり番をしている「わたし」の袖を濡らすという.

引力にしたがって滴り落ちた,露のうごきに寄り添うように,初句と二句では,「の」の音が重なり,滴(しずく)のようにつらなって,一首全体をすとんと下へ落としていく.

農民の立場からすれば,収穫期の田んぼを仮小屋から見守るのは楽ではなかったろうし,日々の労働によって衣服が濡れるのも,いちいち詩情を感じる余裕はなかったと思われる.あくまでも天皇の農民の苦労を慮(おもんばか)った歌だとされていて,実体験を詠んだものとは考えられていない.

それでも,ここに書き留められた,小さな詩情は心に残る.

(後略)

 

百人一首 鈴木日出男著 ちくま文庫

秋の田のほとりに作った仮小屋の,その苫の編み目があらいので,私の袖は露にしっとり濡れていくばかりである.

 

この天智作とされる伝承歌では,実際に農作業に携わる生活者の実感が薄い.

これは何よりも,冷たい露によって印象づけられる晩秋のわびしい情緒を,心静かに観照する趣である.「苫をあらみ」など,単なる粗々しさではない.むしろ,晩秋の田園のうちに,荒寥なるがゆえの美を見出している.情緒の美を重んずる中世的な美意識にも通うところがあろう.

また,「ぬれつつ」の時間の経過にも注目したい.もとの万葉集が「----ける」と感動を瞬間的に捉えているのに対して,これは露に濡れ濡れる者の心の動きを表している.

 

百人一首 全訳注 有吉保 講談社学術文庫

秋の田のほとりの仮小屋の屋根を葺いた苫(とま)の目が荒いので,私の袖はずっとぬれ通しであるよ.

 

万葉集 巻十 2174

秋田刈る 仮庵(かりほ)を作り 我(わ)が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける

 

折口信夫 万葉集

みのった田を刈るための仮小屋を立てて,自分がその中に居ると,袖に冷たく露がおいたことだ.

 

百人一首 鈴木日出男著 ちくま文庫

百人一首の天智作とされる歌と比べて)万葉集では「秋田刈る」「仮庵を作り」とあり,実際に農作業に携る者の気持ちに即している.「衣手寒く 露ぞ置きにける」は,昼間の労働の疲れを休めていると,夜寒とともに袖が露に濡れているのに気づいたという気持ちである.実生活の中の感動である.

 

 

付録

万葉集にある天智天皇御歌の一つ

◎渡津海(わたつみ)の豊旗雲に入日さし今夜の月夜(つくよ)清明(さや)けくこそ 〔巻一・一五〕 天智天皇

(わたつみの豊旗雲に入日さし今夜(こよひ)月夜(つくよ)さやけかりこそ)

 

斎藤茂吉 万葉秀歌

 此歌は前の三山の歌の次にあるから,やはり中大兄の御歌(反歌)の一つに取れるが,左注に今案不レ似二反歌一也とあるから編輯(へんしゅう)当時既に三山の歌とすることは疑われていたものであろう.

併し三山の歌とせずに,同一作者が印南野海浜あたりで御作りになった叙景の歌と看做(みな)せば解釈が出来るのである.

 

大意.

今,浜べに立って見わたすに,海上に大きい旗のような雲があって,それに赤く夕日の光が差している.この様子では,多分今夜の月は明月だろう.

 結句の原文,「清明己曾」は旧訓スミアカクコソであったのを,真淵がアキラケクコソと訓んだ.そうすれば,アキラケクコソアラメという推量になるのである.山田博士の講義に,「下にアラメといふべきを略せるなり.かく係助詞にて止め,下を略するは一種の語格なり」と云ってある.

「豊旗雲」は,「豊雲野神(とよくもぬのかみ」,「豊葦原(とよあしはら)」,「豊秋津州(とよあきつしま)」,「豊御酒(とよみき)」,「豊祝(とよはぎ)」などと同じく「豊」に特色があり,古代日本語の優秀を示している一つである.

 

以上のように解してこの歌を味えば,荘麗ともいうべき大きい自然と,それに参入した作者の気魄と相融合して読者に迫って来るのであるが,如是荘大雄厳の歌詞というものは,遂に後代には跡を断った.

万葉を崇拝して万葉調の歌を作ったものにも絶えて此歌に及ぶものがなかった.

その何故であるかを吾等は一たび省ねばならない.後代の歌人等は,渾身(こんしん)を以て自然に参入してその写生をするだけの意力に乏しかったためで,この実質と単純化とが遂に後代の歌には見られなかったのである.

 

第三句の,「入日さし」と中止法にしたところに,小休止があり,不即不離に第四句に続いているところに歌柄の大きさを感ぜしめる.

結句の推量も,赤い夕雲の光景から月明を直覚した,素朴で人間的直接性を有っている.(願望とする説は,心が稍(やや)間接となり,技巧的となる.)----- 

後略