加藤登紀子1 「声が低くって,音楽の時間が一番嫌いだった.音楽コンプレックスっていうのかしら.昔は.中学ぐらいまで.だからまさか.私が---」「シャンソンコンクールに父が申し込んだ.『申し込んだぞ.優勝すればパリへ行けるぞ』.何てこと思いつくんだと思いましたね」「2回目のコンクールをうけるときに,一時期,喘息みたいな状態が出ちゃって歌えなかったんですよね.突っ伏して泣いたんです」「『ひとり寝の子守歌』を歌っていたときに,舞台の袖に森繁さんが来て『僕の心と同じ心で歌うね.君は』って」 NHKごごナマ

ごごナマでございます.

f:id:yachikusakusaki:20180511212654j:plain

ごごナマ おしゃべり日和「加藤登紀子 名曲に秘められた驚きの秘話とは」 - Google 検索

 

加藤登紀子

5月9日(水)NHKごごナマおしゃべり日和

出演 

加藤登紀子

船越英一郎、美保純、阿部渉

U字工事(ゆーじこうじ)/福田 薫・益子 卓郎

 

 

今日ゲストでございます.加藤登紀子さんです」

 「じっくり伺っていきます」

加藤登喜子「まな板の上の鯉でございます」

 

「 今日のテーマは 

加藤登紀子(74) 歌手生活53年目.今だから言える本音” 

・歌手になんて,なりたくなかった.

・歌手デビューのきっかけは,??が目的だった!?

・昭和の大スターとの思い出を告白.

・運命の決断:歌手をやめる.そして「100万本のバラ」との出会い

・意外な事実:ジブリ作品のあの名曲は○○だった?

 

f:id:yachikusakusaki:20180511213923j:plain

ごごナマ - NHK

 

 

洋服リフォームで老眼克服?

加藤登紀子「縫い物をするんですけど,ちゃんと針に糸が通るようになったの.自伝を書いたんですよ.今年.パソコンで書いてるとき,1時間ぐらい原稿を書いていると.わーって眼が疲れちゃって,それでも書き続けていたの.そしてら良くなったの.最後のほうは,何時間かいても大丈夫になったの.分からないですよ.医学的には,どういうことか」

「お裁縫って,どういうものをするんですか?」

加藤登紀子「私,洋服は捨ててないんですよ.母にひどくおこられまして.だからいっぱい昔のがあるわけです.10年着てないものはどこで切っても良い.ということで,服の一部分にちょっと足したりして,そういうのを疲れて帰って来た夜なんかにちょっとすると,心が安まる」

「リフォームを?」

加藤登紀子「ショールをトップに.ワンピースをスカートに.デザイナーがしたものですけど,アイデアは私」

 

歌手になんて,なりたくなかった.

加藤登紀子「声が低くって,音楽の時間が一番嫌いだった.音楽コンプレックスっていうのかしら.昔は.中学ぐらいまで.だからまさか.私が---.

うちの家族は皆,音楽が好きだったので.中学の時,母がピアノならいなさいって言った時,抵抗したんです.私は音楽をしない.---

不思議なものですね.アガリ症って言うか.中学の時は赤面症で.手上げても赤くなっちゃってしゃべれないとか」

 

「変わるきっかけとか」

加藤登紀子「分からないけど,ためてるんでしょうね.悔しいっていう気持ちを.

中学の時,ダミアっていう人のシャンソンを聴いたら,声が低いんですよ.こういう声でいいんだ.ちょこっと兆しがあった.

高校の時,音楽の先生が『あなたはアルトだから,譜面を低く書き直してくれたら,テストをやり直してあげるよ』って.これが2番目の兆し」

加藤登紀子「大学で演劇をやるつもりが,活動してなかったので,ちょっとガックリして,そしたら,女子ボート部が募集したたわけ.『一年所属すると美人になる』ってキャッチコピーが.それで入部したんです.こぐ力を測定する“エルゴマシーン”を今も活用してトレーニング」

 

歌手デビューのきっかけは,??が目的だった!?

「なんだろ?」

「正解は,『海外旅行』.どういうことですか?」

加藤登紀子「コンクールが1964年.オリンピックの年だったの.その年,初めて自由に海外に行ける事が始まったの.それまで海外って本当に遠かったの.

シャンソンコンクールに優勝すると,ヨーロッパのご褒美がついたの.私がいつも抵抗してた父が申し込んだ.『申し込んだぞ.優勝すればパリへ行けるぞ』.何てこと思いつくんだと思いましたね.その時は.『わかった.やる』って」

 

「それで結果はどうだったんですか?」

加藤登紀子「1回目は4位に落ちました.だからヨーロッパには行けなかった.でも4位に落ちたことが良かった.『来年いらっしゃいよ』ってすごく言われて.

それで1年間は本当に勉強したんです.そして,2回目のコンクールをうけるときに,一時期,喘息みたいな状態が出ちゃって歌えなかったんですよね.突っ伏して泣いたんです.そういう自分を見て,そんなに歌いたいのかって,思ったんです.私が私自身にびっくりしました.

2回目受けるときには歌手になるって決心をして.父の誘導の通り歌手になれるように頑張りました」

 

「2回目は優勝したんですね」

加藤登紀子「はい」

「歌手デビューっていう道が開けるコンクールなんですね.そして,プロ歌手としての道を歩み出しました(21歳).たて続けに楽曲を発表されるわけですね.そして二枚目のシングル『赤い風船』.この曲で日本レコード大賞新人賞という」

加藤登紀子「私のマネージャーが,加藤登紀子に新人賞を取らせたいって言ったら,うちの事務所中がゲラゲラ笑ったの.だってシャンソンでしょ.笑われたの覚えています.

でも,そうかもねって.演歌の全盛時代だったので.でも,その時が変わり目だったのでしょうね.

新人賞にさせて頂いて.そこから頑張りましたよね」

 

 

昭和の大スターとの思い出を告白

「そして,加藤さんと言えば,忘れてならない曲がありますよね.

知床旅情』ですね.1970年にリリースされまして,ヒットチャートなんと7週連続で1位という大ヒットになりました.

そして,この曲の生みの親が,森繁久彌さん.加藤登紀子さん,初めてお会いになった時,かけられた言葉があったそうですね」

加藤登紀子「私の夫が,まだ恋人になったばかりの頃に,『知床旅情』を歌ってくれたんですよ.その時,本当に感動して.

私は一生懸命シャンソンとかやってきたけど,こんなに男が心を込めて歌う歌があるのかと思って.それですごくショックを受けて.それが68年だったんですけど,1年後に『ひとり寝の子守歌』を作ったんです.

『ひとり寝の子守歌』を歌っていたときに,舞台の袖に森繁さんが来て『僕の心と同じ心で歌うね.君は』って.それが,『ひとり寝の子守歌』を森繁さんが認めて下さった瞬間だったの.

それから弾き語りで,必ず『知床旅情』も自分で歌うようになって,その2年後にレコーディングしたんです.

だから,生みの親.森繁さんの歌を知った事がきっかけで,『ひとり寝の子守歌』に私はたどり着くことができたので.もちろん『知床旅情』を歌わせて頂いた恩人ですけど.『ひとり寝の子守歌』を作ったきっかけが森繁さんだったと思います」

「そして,それを出会わせてくれたのがご主人だったわけですね」

加藤登紀子「すごいですね,人生ってね.自分の力っていっても,違うんですよね.

森繁さんと,たくさんお仕事もするようになったんですけど,満州でアナウンサーを詞照らして,私も満州で生まれて引き揚げて帰って来てるんですけど,船で佐世保に着いた日にちが5日しか違わないんです.私,最近すごく調べて,自伝を書くにあたって.佐世保に着いた日が何日かって.私たちを乗った.2772人を乗せた船の名前も分かっていて,そうしたら,森繁さんの日と5日しか違わないというのは,すごいなって思いますね」

 

スタジオ生演奏

加藤登紀子「もともと森繁さんも,知床の人のために残した歌なので,歌手が歌うものではなくて,人々が歌う歌なんです.

よかったら一緒に歌って下さい」

 


知床旅情 - 加藤登紀子


知床旅情 森繁久弥

続く

加藤登紀子2 「長く歌ってきて,本当に歌は歌手として上手に歌うとか,そういうのじゃなくて,いろんな人の生きた気持ちの,それを代わりに歌っているんだという感じが今します」「美空ひばりさんは,同じ部屋でメークしてたことがあったんです.その時に, あなたの『ひとり寝の子守歌』,歌わせてもらってますよって.」「あのジブリ作品の名曲は○○だった」「マダム・ジーナの色っぽさの秘密は?」 NHKごごナマ - yachikusakusaki's blog