ごごナマでございます.
ごごナマ おしゃべり日和「加藤登紀子 名曲に秘められた驚きの秘話とは」 - Google 検索
出演
U字工事(ゆーじこうじ)/福田 薫・益子 卓郎
「今日ゲストでございます.加藤登紀子さんです」
「じっくり伺っていきます」
加藤登喜子「まな板の上の鯉でございます」
「 今日のテーマは
“加藤登紀子(74) 歌手生活53年目.今だから言える本音” 」
・歌手になんて,なりたくなかった.
・歌手デビューのきっかけは,??が目的だった!?
・昭和の大スターとの思い出を告白.
・運命の決断:歌手をやめる.そして「100万本のバラ」との出会い
・意外な事実:ジブリ作品のあの名曲は○○だった?
洋服リフォームで老眼克服?
加藤登紀子「縫い物をするんですけど,ちゃんと針に糸が通るようになったの.自伝を書いたんですよ.今年.パソコンで書いてるとき,1時間ぐらい原稿を書いていると.わーって眼が疲れちゃって,それでも書き続けていたの.そしてら良くなったの.最後のほうは,何時間かいても大丈夫になったの.分からないですよ.医学的には,どういうことか」
「お裁縫って,どういうものをするんですか?」
加藤登紀子「私,洋服は捨ててないんですよ.母にひどくおこられまして.だからいっぱい昔のがあるわけです.10年着てないものはどこで切っても良い.ということで,服の一部分にちょっと足したりして,そういうのを疲れて帰って来た夜なんかにちょっとすると,心が安まる」
「リフォームを?」
加藤登紀子「ショールをトップに.ワンピースをスカートに.デザイナーがしたものですけど,アイデアは私」
歌手になんて,なりたくなかった.
加藤登紀子「声が低くって,音楽の時間が一番嫌いだった.音楽コンプレックスっていうのかしら.昔は.中学ぐらいまで.だからまさか.私が---.
うちの家族は皆,音楽が好きだったので.中学の時,母がピアノならいなさいって言った時,抵抗したんです.私は音楽をしない.---
不思議なものですね.アガリ症って言うか.中学の時は赤面症で.手上げても赤くなっちゃってしゃべれないとか」
「変わるきっかけとか」
加藤登紀子「分からないけど,ためてるんでしょうね.悔しいっていう気持ちを.
中学の時,ダミアっていう人のシャンソンを聴いたら,声が低いんですよ.こういう声でいいんだ.ちょこっと兆しがあった.
高校の時,音楽の先生が『あなたはアルトだから,譜面を低く書き直してくれたら,テストをやり直してあげるよ』って.これが2番目の兆し」
加藤登紀子「大学で演劇をやるつもりが,活動してなかったので,ちょっとガックリして,そしたら,女子ボート部が募集したたわけ.『一年所属すると美人になる』ってキャッチコピーが.それで入部したんです.こぐ力を測定する“エルゴマシーン”を今も活用してトレーニング」
歌手デビューのきっかけは,??が目的だった!?
「なんだろ?」
「正解は,『海外旅行』.どういうことですか?」
加藤登紀子「コンクールが1964年.オリンピックの年だったの.その年,初めて自由に海外に行ける事が始まったの.それまで海外って本当に遠かったの.
シャンソンコンクールに優勝すると,ヨーロッパのご褒美がついたの.私がいつも抵抗してた父が申し込んだ.『申し込んだぞ.優勝すればパリへ行けるぞ』.何てこと思いつくんだと思いましたね.その時は.『わかった.やる』って」
「それで結果はどうだったんですか?」
加藤登紀子「1回目は4位に落ちました.だからヨーロッパには行けなかった.でも4位に落ちたことが良かった.『来年いらっしゃいよ』ってすごく言われて.
それで1年間は本当に勉強したんです.そして,2回目のコンクールをうけるときに,一時期,喘息みたいな状態が出ちゃって歌えなかったんですよね.突っ伏して泣いたんです.そういう自分を見て,そんなに歌いたいのかって,思ったんです.私が私自身にびっくりしました.
2回目受けるときには歌手になるって決心をして.父の誘導の通り歌手になれるように頑張りました」
「2回目は優勝したんですね」
加藤登紀子「はい」
「歌手デビューっていう道が開けるコンクールなんですね.そして,プロ歌手としての道を歩み出しました(21歳).たて続けに楽曲を発表されるわけですね.そして二枚目のシングル『赤い風船』.この曲で日本レコード大賞新人賞という」
加藤登紀子「私のマネージャーが,加藤登紀子に新人賞を取らせたいって言ったら,うちの事務所中がゲラゲラ笑ったの.だってシャンソンでしょ.笑われたの覚えています.
でも,そうかもねって.演歌の全盛時代だったので.でも,その時が変わり目だったのでしょうね.
新人賞にさせて頂いて.そこから頑張りましたよね」
昭和の大スターとの思い出を告白
「そして,加藤さんと言えば,忘れてならない曲がありますよね.
『知床旅情』ですね.1970年にリリースされまして,ヒットチャートなんと7週連続で1位という大ヒットになりました.
そして,この曲の生みの親が,森繁久彌さん.加藤登紀子さん,初めてお会いになった時,かけられた言葉があったそうですね」
加藤登紀子「私の夫が,まだ恋人になったばかりの頃に,『知床旅情』を歌ってくれたんですよ.その時,本当に感動して.
私は一生懸命シャンソンとかやってきたけど,こんなに男が心を込めて歌う歌があるのかと思って.それですごくショックを受けて.それが68年だったんですけど,1年後に『ひとり寝の子守歌』を作ったんです.
『ひとり寝の子守歌』を歌っていたときに,舞台の袖に森繁さんが来て『僕の心と同じ心で歌うね.君は』って.それが,『ひとり寝の子守歌』を森繁さんが認めて下さった瞬間だったの.
それから弾き語りで,必ず『知床旅情』も自分で歌うようになって,その2年後にレコーディングしたんです.
だから,生みの親.森繁さんの歌を知った事がきっかけで,『ひとり寝の子守歌』に私はたどり着くことができたので.もちろん『知床旅情』を歌わせて頂いた恩人ですけど.『ひとり寝の子守歌』を作ったきっかけが森繁さんだったと思います」
「そして,それを出会わせてくれたのがご主人だったわけですね」
加藤登紀子「すごいですね,人生ってね.自分の力っていっても,違うんですよね.
森繁さんと,たくさんお仕事もするようになったんですけど,満州でアナウンサーを詞照らして,私も満州で生まれて引き揚げて帰って来てるんですけど,船で佐世保に着いた日にちが5日しか違わないんです.私,最近すごく調べて,自伝を書くにあたって.佐世保に着いた日が何日かって.私たちを乗った.2772人を乗せた船の名前も分かっていて,そうしたら,森繁さんの日と5日しか違わないというのは,すごいなって思いますね」
スタジオ生演奏
加藤登紀子「もともと森繁さんも,知床の人のために残した歌なので,歌手が歌うものではなくて,人々が歌う歌なんです.
よかったら一緒に歌って下さい」
続く