「蘇生処置を希望しない患者の救急搬送時の対応」を毎日新聞が取りあげていました.しかし,その前に,「ぴんぴんころり」がもてはやされ,「役に立ってこそ男」という効率原理(上野千鶴子)が行き渡った社会において,簡単に「蘇生を望まない」と言ってはいけないのでは?と強く思います.

医療における延命措置をめぐる新聞・雑誌の記事が目を引くようになってきています.

多様なケースそれぞれについての法制化の動き,例えば尊厳死法など,もあります.

 

そんな中,「蘇生処置を希望しない患者の救急搬送時の対応」を毎日新聞が取りあげていました.

mainichi.jp

一見,誰もが法制化した方がよいと思ってしまいそうなケース?

記事の内容は,アンケート結果を軸に,事実を淡々と記載したともみえますが,救急隊の労苦に思いをはせ,法整備の必要性を訴えていると読み取れます.

そして,救急医の「どんな最期を望むのかを一人一人が自分の問題として捉える空気の醸成が必要だ」で終わっています.

読後の気持ちの悪さ.うまく説明できませんが---.

 

ネット上に関連記事としてあげられている同じ記者の昨年の署名記事

高齢者の救命 本人望めば蘇生中止 消防庁委託研究班提言」https://mainichi.jp/articles/20171118/k00/00e/040/286000c

には,

“近年は介護施設からの救急搬送依頼が増えているが,救急隊員が駆けつけると,家族らから「本人は蘇生を望んでいない」と伝えられるなど現場対応が課題となっている.”

とありました.

読後感の悪さの原因の少なくとも一つはこれだと思いました.

なんのことはありません.昨日読んだ記事では

「心肺停止の高齢者を救急搬送する際,現場で蘇生処置を希望しないとの意思が示された」

という事実そのもの.

 

うがった見方で,この新聞記事への反応としては見当違いかも知れませんが---

「ぴんぴんころり」がもてはやされ,「役に立ってこそ男」という効率原理上野千鶴子 下記)が行き渡った社会において,簡単に「蘇生を望まない」と言ってはいけないのでは?と強く思います.

そして,救急医療に携わる医療班の方々には,私の想像を超える大変な労苦があるかと思います.

しかし,最後まで蘇生処置を施して頂きたい.

 

毎日新聞の記事,

並びに

以前一回とりあげた

http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2016/11/10/012344

http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2016/11/29/010302

「相模原障害者殺傷事件」に関連して書かれた上野千鶴子さんの論(一部)を採録します.

 

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https://mainichi.jp/articles/20180401/k00/00m/040/021000c?fm=mnm

救急搬送

蘇生処置「希望しない」経験6割 消防本部など

毎日新聞2018年3月31日 18時11分(最終更新 3月31日 23時40分)

 

 全国の主要自治体を管轄する消防本部や消防局で,心肺停止の高齢者を救急搬送する際,現場で蘇生処置を希望しないとの意思が示された経験がある消防機関が全体の6割にあたる46機関あることが,毎日新聞のアンケートで分かった.

さらに8割の60機関が蘇生不要の意思を受けた場合の対応で「苦慮する」と回答した.消防法令は蘇生措置の実施と,死亡と判断して搬送しない場合しか想定しておらず,蘇生中止に関する法的規定はない.救命任務と,本人の意思尊重との間で救急隊員が苦悩している現状が浮かんだ.

 

 心肺停止時に患者本人または家族らの意思を受けて蘇生処置しないことを「DNAR」と呼ぶ.

 

(DNARとは…do not attempt resuscitation の略 《「がんの末期,老衰,救命の可能性がない患者に対し,「本人の希望」と「医師の指示」があった場合に,胸部圧迫や人工呼吸などの心配蘇生法をしない」ことが,日本救急医学会検討委で提言されている》)

 

高齢者の場合,本人らに蘇生不要の意思があっても,動転した家族や入所先の施設職員らが慌てて救急要請する場合があり,現場で救急隊員がDNAR対応を迫られることが課題とされていた.

 

 実態を調べるため,毎日新聞は昨年12月,東京消防庁道府県庁所在市,政令市,中核市の計79消防機関に調査書を送り,74機関から回答があった.回答率は94%.質問は,末期がんなどの背景がある高齢者が心肺停止した場合のDNAR対応に限定した.

 

 2016年4月以降,実際に現場で蘇生不要の意思が示されて対応に迷ったのは46機関.DNAR対応に独自の手順を定めた地域もあり,うち16機関で蘇生を中止した実例があった.件数は16年4月~17年9月で把握分だけで47件あった.

 

 DNARの対応を「決めている」のは44機関で全体の6割.具体的には「本人の(蘇生不要の)希望や医師の指示があっても,家族を説得し心肺蘇生を継続する」が21機関と最も多く「かかりつけ医から中止の指示があれば心肺蘇生を中止する」は12機関だった.「医師会や消防機関などで作るメディカルコントロール協議会の医師の助言を求める」が4機関だった.

 

 蘇生中止が「不法行為」に問われないような法整備や国の統一指針を「必要」としたのは96%の71機関だった.国の委託を受けた高齢者の救急搬送に関する研究班で代表を務めた北九州市立八幡病院の伊藤重彦・救命救急センター長は「救命目的で活動する救急隊に,現場で蘇生するかしないかの判断を求めるのは無理だ.蘇生を望まないなら救急車を呼ばないなど,どんな最期を望むのかを一人一人が自分の問題として捉える空気の醸成が必要だ」と話している.【長谷川容子】

 

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上野千鶴子 

障害者と高齢者の狭間から

現代思想2016(10月号)  vol 44-19 緊急特集相模原障害者殺傷事件)より

 

「齢を重ねる」と「弱いを重ねる」

・(事件直後,相模原での在宅医療シンポジウムのできごと:「聴衆は事件に関心がないだろう」と伝え,実際,反応が鈍かったこと,を受けて)

 なぜか?私には理由が分かる.高齢者は自分を障害者だとは思っていないからだ.それどころか,障害者と自分を区別して,一緒にしないでくれ,と思っているからだ.

 

・周囲が障害者手帳を取得するよう勧めても,それに頑強に抵抗するのは高齢者自身である.

 なぜか?その理由も分かっている.高齢者自身が,そうでなかったときに,障害者差別をしてきたからだ.自分が差別してきた当の存在に,自分自身がなることを認められないからだ.

 

・私は最近の講演では,わざわざ次のようなことを強調するようになった.

齢を重ねるとは,弱いを重ねる,こと.

加齢とは,昨日出来ていたことが今日できなくなり,今日できていたことが明日出来なくなる,という経験.

高齢化社会とは,どんな強者でも強者のまま死ねない,弱者になっていく社会であること.すなわち,誰もが身体的・精神的・知的な意味で,中途障害者になる社会だと.

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いくらそう伝えても,いま健康な聴衆には将来の恐怖を与えるのみで,それなら,と認知症予防や健康寿命の延長のための体操教室がはやるばかりだ.

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いついかなるときに,自分が弱者にならないとも限らない.弱者になれば,他人のお世話を受ける必要も出てくる.そのための介護保険である.それだからこそ弱者にならないように個人的な努力をするより,弱者になっても安心して生きられる社会を,と私は訴えてきたのだ.

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相模原事件の衝撃は,加害者の残忍さや大量殺人の規模だけでなく,この社会が臭いものにフタ,で押し隠してきた障害者差別のホンネを,公然とさらしたところにあるだろう.2000年代以降,公論の世界ではタテマエとして通用してきた正義や倫理に対して,ネット界ではらちもないホンネが浮上するようになった.もともとウラ・メディアであったネット界の言論が,オモテにオーヴァーフローしてくるようになった.その中に,女性差別,民族差別,障害者差別----等々がある.

 

男が女に変わる気遣いはない.日本人が在日に変わる可能性もない.

健常者が障害者に変わる可能性は------よほどのことがない限りない,と思い込んでいられた.これまでは.

だが,超高齢社会では,すべての人が生命の階段をゆっくり降りていく社会だ.この下り階段はなかなか終わらず,その過程で誰もが要介護になる可能性を持つ.誰もが弱者になる社会------だからこそ,わたしは,超高齢社会を「恵み」と呼んだのだ.

 

相模原事件の加害者は,自分が弱者になることに想像力を持たなかったのだろうか?自分がケアする側から,ケアされる側に廻る可能性を.犯人は「呼び掛けて反応がない相手を殺した」と言うが,自分自身が呼び掛けられても反応できなくなったとしても,安心して生かしてもらえることを期待しなかったのだろうか?

 

-----(中略)

 

ケアにかかわる講演会で,こんな質問を受けたことがある.

健康で溌剌とした高齢者が,大きな声で「八十歳以上の重度介護を必要とする老人を処分することは出来ないのか」と発言した.そのひとはたしかに「処分」と言った.限られた国の予算を効率的に配分するためにも,もう死ぬことがわかっている重度要介護者に資源配分するのはムダだ,と.七十歳代とおぼしきその男性ーーこういう発言をするのは,決まって男性だーーは,自分が八十代になることも,重度の要介護者になることも想像していないのか,と,わたしは彼の顔をまじまじ見つめた.

 

こんなこともあった.経営者を中心とした講演会のあとの懇親会で,初老の男性が近づいてきて,わたしにささやいた.

脳梗塞で倒れたあと,必死でリハビリしてようやくここまで来ました.あの時,家族が救急車を呼ばずにいてくれたら,と何度恨んだか知れません」

後遺障害を負ってまで生きていたくない,いっそあの時,あのまま死なせてくれていたら----と.家族はどんな状態でも生きて欲しい,と願っただろうに,本人が障害者になった自分を受け入れられないのだろう.この男性が肩に背負った「役に立ってこそ男」という効率原理の重さを感じて,この気の弱そうな男性の顔を,やはりまじまじと見て,「生きててよかったでしょう-----」と言ったのだ.