だれもが内心うろたえていた.どうじに,狼狽(ろうばい)をとりつくろおうとしていた. 事件の血しぶきにかすむ深奥の風景を,ほんとうのところは,だれしも見たがってはいないように思われた. あのできごとでみながあわてたのは,流された血の多さからだけではない. いわば,「われわれが『人間性』と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ」たからなのである.
相模原事件1年後の視座(1)
http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2017/10/20/011130
「ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ」た(三島由紀夫).障がい者殺りくと「臓器の感覚」は,なぜかぴたりとかさなる. 「棄老」の習俗を背景とする短編小説と障がい者殺傷事件は,でんたつの困難な新旧の怪しい影がかさなり,交差する,まるで影絵のような世界ではある.
相模原事件1年後の視座(2)
http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2017/10/22/005638
相模原事件1年後の視座(3)
作家 辺見 庸
2017年8月5日〜
山梨日日新聞 共同体の見えない“異界”
社会の暗影
相模原の障がい者殺傷事件は,こうした歴史の延長上にありながら,あまりにも唐突かつあからさまに差しこんできた非人間的暗影であるかにみえる.
だが,暗影をいとど濃くそだててきたのは,げんざいのこの社会にほかならない.
あの青年は「3年間の施設での勤務の中で,重度の障がい者が不幸のもとだと確信をもった」という.
不幸のもとをへらすために,重度障がい者を“駆除”してやったのであり,これは社会貢献だ---とでも言いたげである.
これにたいし,マスコミは「遺族への謝罪はなく,いまもゆがんだかんがえをもちつづけ,みずからを正当化する主張をしている」と,被告の青年を常套句(じょうとうく)で非難する.
言いかえるならば,被告の青年は殺りくの「正義」をうたがわず,メディアは論証ぬきでその正義のゆがみを力なく弾劾している.
1年間これをみつづけ,わたしがおもいうかべたのは,新約聖書の「正しい者はいない.一人もいない」というパウロのことばだった.
「皆迷い,だれもかれも役に立たないものとなった」が,いつわらざる実感である.
もういちど,われわれが「人間性」とよんできた「合意と約束」を反故(ほご)にしたのはだれか,自問しなければならない.
トランプ米大統領の選挙演説や「イスラム国」(IS)のニュースが,青年を犯行にかりたてたという趣旨の情報もある.
障がい者殺傷事件は,日本版の選別的テロだったのであり,これから生起しようとしているさらに大きなできごとの,脈絡のつかない徴(しるし)のようにも感じられてならない.
テレビ局関係者がボヤいている.
「あの事件かんれんの番組では視聴率がとれない」.
それぞれの不可視の異界で,いまも不気味な風が吹いている.
(了)