NHKドキュメンタリー - ETV特集「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」
http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2017/08/15/003801
この町に岩戸さんをはじめ,浦上町の被爆者の多くが移り住みました.今になって重い口を開くようになった人もいます.
靴職人だった博多屋政春さん(84歳).
浦上町で被爆した時は中学1年生でした.
「狭いところで」
母と弟,そして妹を原爆で亡くしました.
(被爆者手帳を取り出しながら)
「この場所は1.2キロになります.被爆1号(直接被爆者)になってるからね」
被爆者,そして被差別部落出身という二重の差別.それを逃れてきた大阪でしたが,そこにも差別がありました.
「長崎からこっちに来て,結構いじめられましたよ.差別も受けました.こんちくしょうと思ってるやつ何人もおる.まだ生きてる」
「長崎出身言うたら,職場の連中もみんな知っとたもん.原爆のこともね.被爆してるから,チフスとかあんな考えしてます.伝染病,チフス.近寄るなとかしゃべるなとか.今でもその人たちを憎んでいます」
敗戦直後に西成に移り住んだ男性はこう語っていました.
「原爆の日が近づいたらね,夏の太陽を見た途端に,原爆の悲しみがわいてくる.梅雨が明けて,大地に太陽が照りつけて,ね,そうする頃から寂しーい何かが,心の中に襲ってくるんですよ.ただ.だから,これが30年経とうが40年経とうが,やっぱりわしらの心には,原爆の風化ちゅうのはない.
全てーの今の生活が,あの日から始まっているんですからね.そのために肉親も何も全国に散在してしまった.一緒に暮らせるものが,絆も全部引き裂かれてしまった.それも原爆のおかげなんです」
被爆から30年あまり.人々が離散して消えてしまった浦上町.ふるさとを取り戻すことはできないか.
1979年,同和対策事業として浦上に建てられたのが,5階建てのアパートでした.各地に散っていた人々が,再び,浦上に戻れるようになったのです.
中村イネさんと由一さん親子も戻ってきました.
由一さん「ふるさとは一瞬に消えたんじゃなくしてですね,消えてなかったんですね.戻る場所があったんです.最後に,また浦上に戻れたっていう.
やっぱりこの建物があったから,そして,結局みんなと同じ場所に帰れるっていう.はい.それが結局,母親は一番嬉しかったんではないかなと思います.
そのためには結局,母がそこで語ろうという気持ちに変わっていったんではないかなと思います」
浦上町出身の被爆者たちは,積極的に中学生などに被爆体験を語るようになります.
(映像:車座になって中学生たちと語り合う浦上町の方々)
大阪西成で,自らの命を絶とうとしていた岩戸さん.晩年,浦上に戻ってから,その人生は大きく変わりました.
「正直な話ね,おばちゃん原爆の話はしとうなかった.今までは.だけどね,やっぱり原爆の怖さ,それをね,次の世代の人にね,話しとかなんだら--.
差別が,部落がどうしてできたか学んで.だから,私はこないして語り部で来るようになってから.
うちは位牌が一つにまとめてありますけど.
ねー,お父さん,お母さん,あんたたちのこと,今日は話してくるよ.今日は話してくるからねって.
だから,今日,死にかけた私がね,今日まで,こないして生かしてもらっているのも,やっぱりね,みんな,原爆で亡くなられた多くの犠牲者の人をね,犬死にさせたくない,させてはいけない.という.私にはやっぱり責務があるんじゃないかな,と思ってね.
それが残されたもののね,責務.というふうに変わりました.
でね,おばちゃんが,皆さんに最後にお願いしたいの.
とにかく,やっぱり,知る事ね.
知らんということほど,怖いもんないよ.ね.差別がどうして生まれたか.部落がどうして生まれたか.ということを,まず知って.それでね,勉強して」
原爆と差別に向き合った岩戸静枝さん.
88歳で亡くなるまで若い人々に語り続けました.
浦上町の被爆者の多くが既にこの世を去り,共同墓地に眠っています.
由一さんの母,イネさんも,晩年,被爆体験を語り続けて83歳で亡くなりました.差別の歴史を後世に伝えようと,全国に散った浦上町の人たちは,協力して石碑を建てました.「淚痕之碑(るいこんのひ)」です.
http://www7a.biglobe.ne.jp/~t-uchida/ireihi/heiwa5/
由一さん「『淚痕』.涙で私たちの怒りを表している.浦上っていうのは,本当に,結局,あの〜,人間として見られてなかった人たちが,この浦上をつくって来たです.だから,浦上というそのものの怒りと,そこに原爆を投下された怒り.沢山の差別が渦巻いているっていうか--.私たちは,ここでその怒りを語るっていう.つないでいくっていう」
7月16日,浦上のカトリック信者にとって,忘れることのできない大事件から150年を迎えていました.
(映像:横断幕を掲げて行進するカトリック信者たち)
「浦上四番崩れ」.
江戸時代の末,3400人もの潜伏キリシタンが捕らえられ,全国に流罪になったのです.この大弾圧の背景には,浦上のキリシタンと被差別部落の人々との対立がありました.
今,浦上では,その対立の歴史を見つめ直そうとしています.カトリック信者と被差別部落の人々の合同の勉強会が開かれました.
西村(勇夫)さんと中村(由一)さんは,この勉強会で初めて顔を合わせました.
中村さん「浦上で生まれて,部落で生まれて」
西村さん「どこよ」
中村さん「浦上町という被差別部落の中で生まれました」
「あ〜,そうですか」「はい.原爆で」「町ごと」
「はい.町ごとやられました」
二人は,「浦上四番崩れ」の発端となった場所にやって来ました.
1867年,秘密の教会で祈りをささげていたキリシタンたちが,長崎奉行所に捕らえられます.
案内者「ここで,被差別部落との関わりが出てきて,部落の人たちが動員をされて,その人たちが襲った場所です」
キリシタンの迫害に被差別部落の人々が関わっていたのです.なぜ,両者は隣り合って暮らしながら,対立する関係になったのでしょうか.
もともと浦上の被差別部落の祖先も江戸時代の初めまではキリシタンでした.しかし,キリシタンが弾圧される時代になると,被差別部落の人々は仏教に改宗します.
やがて一部の人々は,長崎奉行所のキリシタン取り締まりにも関わるようになったのです.
差別を受けた人々に深い関心を寄せてきた,作家の高山文彦さん.
キリシタンと被差別部落.二つが対立した複雑な歴史が,戦後の沈黙の背景にあると考えています.
高山さん「二つの浦上がありました.この二つの浦上の人々は,時の権力者によって,ある種,利用されたところもありました.それによって,加害者,被害者の側に立たされて,長い間,血で血を洗う抗争もあり,ずっとそれ以降は沈黙をしてきたんですね.常に,ここは被害と加害が混在してまして,それがずっと繰り返し行われてきた.
従って,沈黙はそういった長い歴史の中で醸成されてきた被差別的な風土が,さらに原爆によって助長されたと.倍加された.それ故に,強いられた長ーい沈黙,そして,深ーい沈黙であった」
浦上を歩いた中村さんと西村さんは,お互いの歴史を確かめ合いました.
中村さん「もう同じ---,何というかな---,えーっと.私の方の先祖が,捕らえる身であったんだな,って.そのためにキリシタンの人たちに対して,大変なことをしてきたんだなーって.やっぱりそれを,お詫びしなけりゃいけないな.という気持ちでいっぱいです.どうも---.
同じ四番崩れの中で,捕らえる身と捕らえられる身の状況に,そんな人たちと,今日,こうして話ができること,すごい」
(映像:握手する中村さんと西村さん)
西村さん「先祖がね,守り通した,このカソリックの信仰---」
カトリック信者と被差別部落の人々は手を携え,浦上の歴史を語り伝えようとしています.
「原爆で残った人が.寂しくなって」「そうです」
「もういないんですよ」「少なくなって」
「また会いましょう」「はい,また会いましょう.会いたいです」
度重なる弾圧.そして原爆.
重い受難の歴史を背負った,浦上のカトリック信者たち.
被爆体験を語りはじめるきっかけとなったのが,一人の人物の来日でした.
1981年,長崎を訪問したのが,ローマ法王ヨハネ・パウロ2世.
第二次世界大戦をポーランドで体験し,一貫して戦争に反対していました.
ヨハネ・パウロ2世「戦争は,人間の仕業です.戦争は人間の生命の破壊です.戦争は死です」
青年期に信仰が揺らいだ西村勇夫さんも,目を開かされたといいます.
「人間の仕業だったのか.戦争もね.まさか,ローマ法王が『人間の仕業』と言うことをね.改めて何か重くな.
人間は何でもできるんだ.戦争もできる.平和も作りうる.
なるほどな.
戦争ばかりはやったら駄目だな」
「原爆は,人間の仕業なのだ」西村さんは封印していた被爆体験と向き合う覚悟を決めます.
この時,西村さんの心を捉えたマリア像がありました.
(映像:被爆マリア小聖堂)
焼け落ちた浦上天主堂にただ一つ残されていた「被爆マリア」です.
「見るたびに,あ〜,マリアさま,原爆に遭いましたね.原爆に遭われて同じ苦しみがあった.
マリアさまの瞳を見て,まなこがね,なんとも平和を求めておられるな.まなこに吸い込まれそうになる」
家具や内装を手掛ける職人になっていた西村さん.自身の工房で,被爆マリアの彫刻をはじめました.
それを手に,世界各地を周り,長崎の受難,自身の体験を語るようになったのです.
スペイン北部の町,ゲルニカ.
4月,西村さんはこの街を訪れました.
1937年,ゲルニカは史上初めて無差別爆撃を受け,多くの市民が亡くなりました.ピカソの絵で知られた,その爆撃から今年が80年の節目にあたります.
4月26日,ゲルニカのサンタマリア教会.犠牲者への追悼ミサが開かれました.西村さんは4ヶ月かけて彫り上げた被爆マリアを奉納しました.
教会ミサ参列者「被爆マリアに感謝します.二つの町が兄弟のように感じました」
「ゲルニカ平和巡礼の旅」・・・9 「長崎の被爆マリア」のレプリカ贈呈ミサ。
同じ無差別爆撃を受けた長崎から来た被爆マリア.ゲルニカの人々は,自分たちの苦しみを重ねていました.
神父「世界では戦争が続いています.願いを共有しなくてはいけません」
「浦上の体験を伝えたい」中村由一さんは,長崎を訪ねる若い人々に,積極的に語っています.
大阪貝塚市の中学校とは,20年以上にわたって交流を続けて来ました.
(映像:講演会場と貝塚市立第二中学校3年生 登壇する中村さん)
「長崎の浦上という所に,浦上町という被差別部落があったんです.その浦上町という被差別部落が私のルーツになりますから.
だからおばあちゃんは,『絶対に浦上町から来たということは言ってはいけないぞ』おばあちゃんが母に注意をします.母も兄も唇にチャックをしてしまわなければいけない.おばあちゃんたちも差別を受ける事になりますから」
由一さんは,被爆後に通った小学校時代のことを語りはじめました.
「はじめ中村由一という名前を呼ばれていたんですけども,『原爆』という名前が,私の『中村由一』の代わりです.
今でこそ,『差別』という言葉,『いじめ』という言葉があるんですけども,その当時は,いじめも差別も言葉もありませんでした.その時に卒業式を迎えたんです.
あなた,中村由一になって下さい.それまで,あなたは,河童やハゲや原爆があなたの名前でした.ところが,6年生になって担任の先生が私に言った名前は『中村由一』.
私は立たないというよりも,立てなかったんです.だって私の名前じゃなかったから.私は『ハゲ』だったら返事をして立ってます.『原爆』だったら,返事をして立っています.でも,担任の先生は,私を『中村由一』と呼んだ.私は立たない勇気を選びました」
由一さんは,それでも卒業証書を受け取ります.
しかし,同級生はそれを取りあげ,目の前で破りました.由一さんは必死の思いで取り返したといいます.
「その卒業証書をもらったときに,何と思ったのかって言えば,この卒業証書は母ちゃんの卒業証書です.私のじゃない.母ちゃんが私を学校に出してくれるために,土方作業をして,働いて働いて,母ちゃんは,私を妹たちを学校に出してくれたんです.差別の中を戦った母であるということを.
『母ちゃんの卒業証書ですから』.私はそう言って母ちゃんに渡しました.
私は皆さん方,一人一人に聞きたいには,この世の中に,差別を,いじめを,本当に無くすことができるのかどうか.
皆さん,どう思いますか.
差別やいじめが,この世の中から消えてしまうことが,本当にできるのかどうか.どう思います?
私ははっきり言います.なくす事できると思います」
8月9日.
浦上では,二つの慰霊祭が行われていました.
旧浦上町の共同墓地で.
中村さん「新たな被爆者を出させない,という誓いを新たに,今後,2世3世を中心に,被爆体験の伝承を広げていかなければなりません.」
浦上天主堂では,原爆で犠牲になった人々を追悼するミサが行われました.
戦後72年,差別を乗り越え,生き抜いてきた浦上の被爆者たち.
その言葉をどのように受け継いでいくのか.重い問いが投げかけられています.
原爆と沈黙
〜長崎 浦上の受難〜
語り 加賀美幸子
編集 松本哲夫
ディレクター 渡辺 孝
政策統括 山中賢一 塩田
製作・著作 NHK長崎