浦上は古くからキリシタンが集中して暮らしていた地域でした. 1万2000人のカトリック信者の内,8500人が原爆で亡くなりました.その南の外れに被差別部落がありました. 1000人の住民の内,およそ300人が亡くなり,300人が行方不明になりました.「浦上のピカドンと言われよった.差別があったと.原爆というのは隠す.隠し通した.必死に」「学校に入ったときに,『原爆』という名前が私の代わりです.被爆者を見て差別をする.長崎の被爆も差別があったんです」NHK“原発と沈黙 〜長崎 浦上の受難〜”より(1)

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8月9日長崎に原子爆弾が投下されて,72年がたちました.

長崎市長田上富久さん「私たちは決して忘れません.1945年8月9日午前11時2分,今私たちがいるこの丘の上空で,原子爆弾が炸裂し,15万にもの人々が死傷した事実を」

 

式典が行われた長崎浦上は,原爆の被害が最も大きかった地域でした.

多くの人々は,戦後長く,被爆体験を語りませんでした.

 

(鐘の音,映像:浦上天主堂

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浦上天主堂 | 長崎市 平和・原爆

 

祈りの場,浦上天主堂は爆心地からおよそ500メートル.浦上では8500人のカソリック信者が亡くなりました.

西村勇夫(いさお)さん(83歳).

戦後,地元長崎で,被爆者への差別があったといいます.

「浦上のピカドンと言われよった.差別があったと.原爆というのは隠す.隠し通した.必死に.世代を乗り越えてきた」

 

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NHKドキュメンタリー - ETV特集「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」

 

浦上にはカソリック信者が住む地域の近くに,被差別部落がありました.およそ300人が原爆で亡くなりました.生き残った住人の多くがこの地を離れました.共同墓地だけが残されています.

(映像:旧浦上町共同墓地)

 

被爆者,そして被差別部落

差別の歴史をなかったことにしてはいけない.

中村由一(よしかず)さんは,近年になり自らの体験を語り始めました.

(映像:学校の体育館での講演)

「長崎の浦上という所に,浦上町という被差別部落があった.その浦上町という被差別部落が,私のルーツになります.

学校に入ったときに,『原爆』という名前が私の中村由一の代わりです.被爆者を見て差別をする.長崎の被爆も差別があったんです」

 

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国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク

 

 

(映像:西村さんと中村さん)

長崎浦上のカトリック信者と被差別部落被爆者たち.

人々はなぜ沈黙を強いられたのか?

そしてなぜ語り始めたのか?

差別の中を生き抜いた浦上の人々を見つめます.

 

原発と沈黙 〜長崎 浦上の受難〜

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NHKドキュメンタリー - ETV特集「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」

 

マリアナ諸島テニアン島

1948年8月9日未明.プルトニウム型の原子爆弾がアメリカ軍のB-29爆撃機に積み込まれた.

(映像:原爆が運び出され,着装される瞬間)

 

第一目標,北九州の小倉に向かいます.

しかし,小倉上空は厚い雲に覆われていました.

B-29は,何度も上空を旋回した後,

第二の目標,長崎に向かいます.

長崎中心部の上空も雲に覆われていました.

雲の切れ間ができたのは浦上でした.

午前11時2分浦上上空から原子爆弾は投下されました.

 

(映像 原子爆弾の投下とキノコ雲)

爆心地の浦上は,長崎の中心部から北西に3.3キロ離れていました.浦上は古くからキリシタンが集中して暮らしていた地域でした.

1万2000人のカトリック信者の内,8500人が原爆で亡くなりました.

 

西村勇夫さんは,当時小学校6年生.爆心地からおよそ1.8キロの自宅で被爆しました.

「その光がさ,土間にピューと,稲妻の青い光ったような,あの閃光(せんこう)がダーッときたとよ.もー,目の玉がピューっと.もうその瞬間じゃ.下敷きになった.あの光.それから音も,なにーもわからん.母親が狂ったような声で助けを求めとる.もう世界の終わりだ.

ほんと,わしは,ただ,太陽が異常に接近して,そして燃えてしまった.そんな状況になったたいな〜って」

 

(映像 西村さん家族の写真)

西村さんは3人の姉を亡くしました.軍需工場や病院で働いていた2人は,この日亡くなりました.

「『ユキ 昭和二十年八月九日』.『昭和二十年八月九日』.これが当日,原爆で亡くなった.遺骨がわからん.だから,どこで亡くなったか」

 

長崎市の原爆の被害です.

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長崎原爆の物理的被害

建物の全壊全焼は,長崎駅より北部,浦上に集中していました.

長崎の中心部は,浦上とは山で遮られていたために,浦上ほどの被害は被りませんでした.市の中心部の防空壕にいた長崎県知事は,被爆直後報告しています.

「被害の程度,極めて軽微にして,死者並びに家屋の倒壊は僅少なり」

知事は浦上の被害の実態を把握していなかったのです.

 

浦上にはカトリック信者が多く暮らしていました.

その南の外れに被差別部落がありました.浦上町です.人々の多くは靴の製造に携わっていました.家屋は全て倒壊し,全焼しました.1000人の住民の内,およそ300人が亡くなり,300人が行方不明になりました.

(映像:肉親を荼毘(だび)に付す家族-浦上町 松本栄一撮影)

 

浦上町の自宅で被爆.意識不明の重体になったものの,命を取り留めた人がいます.

取材者「こんにちは.今日はよろしくお願いします」

中村由一さん(74歳)です.

自宅は倒壊しましたが,近所の人が3歳の由一さんを助けました.

「体にはやけどがない.っていうのはおじさんが私の前に覆うかたちで,原爆の時の光は覆うかたちで.結局,私の前にいたから,私は結局,やけどっていうのは体全体にはないんですけど,足にだけ,今でもやけどが分かります.みせましょうか?」

「はい」

「この部分が--.体は守られてやけどはないんですけども,ただ,あるというのは,この部分だけがやけどで」

(映像 やけどをみせる中村さん.足首〜足の甲のやけど跡)

「これから先の部分,この指自身も全く機能がないんです」

 

由一さんの母,イネさん.原爆が投下されたとき,子どもたちの食糧を手に入れるために,長崎市の中心部にいました.

被差別部落,浦上町の被爆体験を記録しようと,30年前に録音された証言があります.30時間に及ぶ録音にイネさんの声がありました.由一さんたち3人の子どもを浦上に残していたことを案じていました.

 

「ピカッと光ったときは,『あれっ.今のおかしかったね』って.私は子どもを浦上町に置いてね,出た.子どもが待っているからって言ってね,火の中をずーっと(歩いて),もう,ここに来たときには,靴はいとっても,靴は破れてしもうてね,着とるモンペはびりびり.もう,燃えてひどかったですよ.

『子どもがね,うちの子どもがどこにおっとか知らん?探しよっと探しよっと』って」

 

長男の常己さんは重症を負っていました.由一さんは意識不明の重体.生後間もない勝利(まさとし)さんは,焼死しました.

長男の常己さんは一ヶ月後病院で亡くなりました.

(映像:涙をこらえる中村さん)

 

「入院させとってもさ,とにかくな〜んも食べられんけんね.死ぬ前,息の切れる前にね,『母ちゃんね,もう来んでいい』って.『助からんとやったら,勝利(三男)と一緒に焼け死んどったらよかった』って言うでしょ.もう,そいが,かわいそうで.それから,それこそ,親子で泣き暮らししよった.二の口にはそれだけば言いよったですね」

 

3人兄弟の中,由一さんただ一人が生き残りました.靴職人だった父も亡くなります.イネさんは女手一つで由一さんを育てました.

由一さん「もう結局,土方.それしかできなかったからですね」「うん」「仕事をもらわないと,結局その日はあぶれたら,お金は一銭も入ってこないって言うことですね.だからどんな仕事でも,しなければいけない ということで,ちょうどその頃『ヨイトマケの唄』がはやっていたと思うんですけども,そんな仕事ですね.で,夜は近所のバケツ屋さんに.近所にバケツをつくる---,ブリキで.そのバケツを作るのに行ってたんですね.だからもう一緒にご飯を食べるということは,ほとんどなかったですね」

 

壊滅的な被害を受けた浦上.

(映像:被爆後の浦上.航空撮影----最後に被爆後の浦上天主堂

 

変わり果てた姿をさらしていたのが,カトリック信者たちが30年の歳月をかけてつくった浦上天主堂でした.

原爆投下から3ヶ月後の11月,犠牲者の慰霊祭が行われました.

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浦上天主堂と原爆

 

被爆した医師の永井隆は,信者を代表して弔辞を述べます.「浦上のカトリック信者は天罰を受けたのだ」という一部の声に反論したものでした.

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永井隆 (医学博士) - Wikipedia

世界大戦争という人類の償いとして日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ(ほふられ),燃やされるべき潔き(きよき)羊(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか」

永井は「浦上は神に捧げられた犠牲」と言ったのです.

 

しかし,その事は「憎しみを口にすべきではない」という考えにもつながり,被爆者たちの沈黙を招いたといいます.

 

カトリック長崎大司教区下笮(しもさこ)英知神父

「原爆を落としたアメリカが憎いとかそういった感情が,被爆者の中に当然あるんだけれども,それを発すると,何でしょうかね,『永井隆の考え方と違うんじゃないか』みたいなね,そういうことになって,まあ---.彼が被爆者の声を,沈黙していた被爆者の声を代弁したんだけれども,一方で,彼の言葉が,被爆者たちの『つらい思いを発したい』という,その思いを押さえつけてしまったという.だから,よく,『怒りの広島,祈りの長崎』と,こう言いますけどね.まあ,確かに長崎は,被爆への怒りを表すのが,広島と比べるとずいぶん遅かったですもんね.それは,もう,永井隆の影響はあると思います」

 

浦上は神に捧げられた羊(こひつじ)という永井隆の言葉.

しかし少年だった西村さんは大きな疑問を抱きます.

なぜ神は助けてくれず,浦上をこんな目に遭わせたのか?

 

浦上天主堂.東洋一と言われた素晴らしい教会が無残にやられとる.なんでキリストは奇跡を起こさなかったのか?本当に神も仏もおらん.という捨てっぱちになった時期があったな〜.これから,もう,日曜日のミサには絶対行かん.なんで俺ばっかりこんな信仰して何になるか〜.そういう----.教会には行かん.絶対行かん.やけのやんぱち.やけくそになって.性根グレて.学校ではケンカばかり.グレる.高校にも行けんかった」

 

中学を出た西村さんは,長崎市内で家具職人になります.しかし,浦上出身とわかると周囲の目は変わったと言います.

 

「浦上のピカドンと言われよった.ピカッ,ドン.これがはやり言葉になった.『お前ピカドンだな』.こげんこと飲み屋でも言われたら,ぴえーと腹が立ってね.ピカドンと言われると若い頃は,本当,ショックだったな.『この野郎〜,ピカドンってなんか?』ケンカしたこともあるよ.本当に売り言葉に買い言葉.差別があったと」

 

西村さんは,「原爆は長崎に落とされたのではない.浦上に落とされたのだ」.度々耳にします.

 

それから30年余り,西村さんは自身の被爆体験を語らず,沈黙を守りました.

 

敗戦後,焼け野原となった被差別部落,浦上町.靴の製造は途絶え,多くの人々が浦上を後にし,県内外に移住しました.

 

中村由一さんとイネさん親子は,浦上を離れ,長崎の中心部で暮らします.由一さんは小学校に通い始めます.

「このグラウンドは,私の机が雨が降っていたときに,このグラウンドにポツンと椅子と机が出されていたんですけどね,その椅子をみんなが指さしながら通るんですけども.私はすぐわかりました.私の机と椅子なんだと.

一年生二年生は原爆によって髪の毛がないということがあって,河童という,そして最後には,原爆という名前が,結局,私の名前になっていく.

私の学校に提出した戸籍謄本.そこの中にみんな書いてあった.だから,被爆者と被差別.二つの差別ですよね.被爆者でありながら浦上町という被差別部落だけが,差別が一番キツかったです.

どこに行ってもやっぱり二つの差別がついてくるんあだなー」

 

その後,郵便局員になった由一さん.自身の被爆体験は語りませんでした.

 

「浦上町の住人ということもあって,差別をする,その差別の中に,私は自分のことも語れないような状況に,だんだん,だんだん落とされていくっていうよな.だから,結局,誰も聞いてくれる人がいなかったからですね,語らなくてもいいんだ,という.一言も語るまいと言うような形で.私は心に決めました」

 

被爆者と被差別部落

二つの差別を背負いながら,由一さんは生きていきます.

 

長崎市は急速に復興を遂げていきます.

開港400年を迎え,町は祝賀ムードに包まれました.(1970年 長崎開港400年)

浦上町には幹線道路が作られ,外からの住民が移り住みます.町名も変更になりました.

1973年,政府が被差別部落について全国調査した「同和対策の現況」です.長崎県の情報がありません.

長崎県は「長崎市内には被差別部落がない」と報告していました.

 

取材者「今日は」

宮田さん「これはこれは,どうぞ」

長崎市に「被差別部落がない」とされていたことに,疑問を抱いた人がいます.当時,朝日新聞社の記者だった宮田昭さんです.

宮田さんは,長崎市内で,土産物として売られている古地図を見つけました.そこには,昔の町名や地名が記されていました.

「見たら,浦上地区の所に,『エタ』という古地図が出とったわけですよ.『えっ』と思って.今頃の時代に差別の『エタ』を刻んである.

(映像:古地図)

黒塗りの箇所に差別的表現がありました.

 

宮田さんは長崎の労働組合のリーダーだった磯本恒信に相談します.磯本はもともと浦上町の出身でした.宮田さんは古地図を見せ,翌日,磯本と共に長崎市役所に足を運びます.

「『その地図はやっぱり差別の地図だ』って抗議してね.

で,あのー,磯本さんが本人は部落というのはこれまで隠してきたんだけど,『浦上に部落はないのか』と.そしたらやっぱり市としては,『いやー,原爆でもうなくなった』という言い方をしてね.そしたら『ない,ない』で市としては突っぱねていくわけですけど.『実際ないのか?』って.『ない』と言うことで.

そしたら磯本さんが立ち上がるんですね.『俺が部落だ』と.そこで初めて宣言して.

そん時,僕は,そばにいたんだけど,磯本さんが,ブルブル震え上げてね.僕まで震え上がるぐらいの形で」

 

宮田さんは翌日の新聞で,差別の古地図を取りあげました.

(映像:新聞記事 見出し「差別の古地図を掲載.長崎市の開港四百年記念出版物.社会党など回収要求. 朝日新聞1971年11月27日)

行政の被差別部落に対する対応の甘さを指摘したのです.

 

「磯本さんが宣言した,その事が,非常に,私にとっても,大きな位置づけというか,やっぱり人間宣言というか,そういう意味で捉えたですね.

だから,磯本さんは覚悟はしとるし.相当な,やっぱり覚悟がないと,この,部落民宣言,っていうのは,誰が見ても難しい.命をかけたような言葉ですよね.当時としては.

だから,やっぱり,その気持ちが自分にも伝わってきて,『よし,覚悟だな』って」

以来,磯本は市内各所に散っていた浦上待ち出身者と連絡を取り,部落解放運動を展開していきます.

1976年に部落解放同盟長崎支部が結成.長崎県も同和対策事業担当を設置.正式に長崎市内の被差別部落の存在を認めました.

このころ,浦上の被差別部落の歴史を見つめ直そうという動きが生まれます.長崎県部落史研究所がつくられます.

被差別部落の人々は被爆体験を語り始めます.録音は30時間に及びました.

 

当時長崎県部落史研究所 阿南重幸さん

「ほんとに,『これまでしゃべった事がない』いうふうに言われて,『当時のこと思い出すだけで,背筋が冷たくなる』というふうな事もお話しされながら---.戦後初めて被爆体験を他人に話した.身内にも話してない人もいましたからね.それを明らかにしたって言うことですよね」

 

中村イネさんが証言を残したのもこのときでした.

二時間にわたる録音には戦後の苦労が語られていました.

「もう着るもんも無し,布団も無し.布団でもなんでも干してあるのを見たらね.本当ね.あの布団欲しかね.その時は何でも欲しかったですね.

本当に焼けてさえおらんば,こげんして寒か目に遭わんでよか,と思ってね」

(映像 涙をこらえうなずきながら聞き入る中村由一さん)

「泥棒して,持っていって子どもに着せたかね,って思いよったですね」

 

残された録音には,浦上に暮らすことができなくなり,ふるさとを遠く離れた人の,声もありました.

 

岩戸静枝さん.原爆で家族全員を失いました.

戦後,大阪で靴づくりで生計を立てていました.

「風呂敷包み一つ持って出た私は.本当」

「死にたいと思ったこと,叔母さんあるって書いてある」「あったよ,私は.薬局に行って,睡眠剤を一軒の薬局では,売ってくれないからね.一軒の薬局でこれ位の睡眠薬.もう一件の薬局に行って睡眠薬.二瓶飲んだ.

生きていても差別にあうでしょ.『帰りたか』と言っても,帰る家はないし,親はおらんし,張り合いないし.

だけど,やっぱり死ねなかった.私が部落出身だっていうこと,私自身が隠しているものだから,いつもびくびく.

歩いてても上見て歩けれんわ.下ばっかり.自分自身が卑屈になって.本当におばちゃん卑屈になってたよ.

なんもかも,どんなことしてても何の希望もないわ.それまでは,親兄弟がいてた.どんなことあっても張り合いがあった.

だけどそれが原爆によって,その張りもなにもなくなって,何にも無いようになって,本当に世の中が嫌になった」

 

大阪市西成区

この町に

岩戸さんをはじめ,浦上町の被爆者の多くが移り住みました.今になって重い口を開くようになった人もいます.

 

(以下続く http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2017/08/16/013514

yachikusakusaki.hatenablog.com