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新聞より 「人は思いのほか弱く,不意な出来事であっという間に弱者化する.私たちは,そんな当たり前のことを忘れがちである.いま何としても『弱くある自由』を守らなければならない.誰かの存在を抹殺しないために.未来の自分を殺さないために」 中島岳志「『不要なもの』とされる恐怖 守るべき『弱くある自由』」 東京新聞 論壇時評

「不要なもの」とされる恐怖 守るべき「弱くある自由」

 中島岳志 「論壇時評」東京新聞 2016年(平成28年)10月27日(木)東京夕刊

 

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フリーアナウンサー----の人工透析患者に対する暴言が問題になった.彼は「自業自得の人工透析患者なんて,全員実費負担させよ!」「無理だと泣くならそのまま殺せ」とブログに書き,厳しい批判にさらされた.

病気やけが,障害などのリスクは万人が直面する問題である.いくら健康に気を使っても,突然病気にかかる可能性はなくならず,今日と同じ明日を迎えられるかは,常に不透明だ.そのような身体の不順やリスクに対して,原理的な自己責任論を適用してはならない.自分で治療費を負担できない人間は生きる価値がないという結論を導くことになり,最終的な公助や共助の対象になる人間は「不要な存在」と見なされかねない.生命に優劣をつける発想は,おぞましい優生思想を 生み出す.

 今回の暴言を目の当たりにして想起したのは,----の過去の発言である.彼はかつて「女性が生殖能力を失っても生きるってのは無駄で罪です」と述べ,問題になった.同じインタビュー記事(『週刊女性』2001年11月6日号)で生殖という「目的を達せない人」を「本質的に余剰なもの」と言い,また「存在の使命を失ったもの」とも言い換えている.彼の中には〈生きる価値のある人間〉と〈生きる価値のない人間〉という二分法が存在 するようだ.

 そんな----が,いま自らの肉体的な衰えに苛立ち(いらだち)死の恐怖にさいなまれている.『文学界』10月号に掲載された----との対談「『死と睨み合って(にらみあって)』の中で,----は三年ほど前に患った脳梗塞の後遺症に悩まされていることを告白する.

  彼は「記憶中枢の海馬がやられちゃった」ため,字を忘れてしまったという.ワープロ入力は可能なものの,手で字を書くことが難しく,時にひらがなを書くこともままならない.彼は対談の中で「怖い」という言葉を繰り返し,「自分で自分にイライラする感じ」と述べる.最近は鏡にむかって「おまえ,もう駄目だな」とつぶやくという.

 しかし,一方で今年七月に起きた相模原事件の容疑者について「僕,ある意味でわかるんですよ」と言い,大江健三郎に対して「ああいう不幸な子どもさんを持ったことが,深層のベースメントにあって,そのトラウマが全部小説に出てるね」とも発言している.一九九九年には, 重度の障害がある人たちが入所する施設を視察した際,「ああいう人ってのは人格あるのかね」と発言しているが,現在も差別的な認識は変わっていない.

 今,----はおびえている.それは自らが「不要なもの」と見なしてきた存在に,自らがなろうとしているからだ.

  ----は,---の思想に,存在を脅かされているのだ.この矛盾に直面した時,彼は「怖い」という言葉を連呼するしかなかった.そんな彼に「自業自得と いう言葉を投げかけたくなるが,それはやってはならない.自己責任論の悪循環を加速させ,----や----の暴言を後押しすることにつながるから.

『世界』10月号は.「相模原事件の問い」と題した小特集を組んでいる.そこに掲載されてた熊谷晋一郎「『語り』に耳を傾けてー分岐点を前にして」は,問題の所在を鋭くあぶり出している.

------(中略)

事件後は「急に襲われたりしないだろうか」と不安に思うようになったと述べる.

 これは「不要なもの」とされる恐怖に基づいている.

------(中略)

「みんなあす新しい障害者になるかもしれない」

  この不安と恐怖を乗り越えるために,人は「障害化」された人々を排除し,集団的価値へ同一化しようとするが,それは〈----のパラドックス〉を強化するだけである.いずれ自分が殺されることになる.人は思いのほか弱く,不意な出来事であっという間に弱者化する.私たちは,そんな当たり前のことを忘れがちである.

 いま何としても「弱くある自由」を守らなければならない.過度の自己責任論を,全力で遠ざけなければならない.誰かの存在を抹殺しないために.未来の自分を殺さないために.

 

中島岳志さんの論壇時評(東京新聞)を抜粋しました.

評論文であるため,当然のことながら本文中では敬称なしで氏名を記述しています.そのまま写そうかと思いましたが,引用だとしてもこの枠内はあくまでもブログ記事.敬称/肩書きなしで氏名を書くことに躊躇してしまい,----で表しました.名前を伏せるためではなく,高みに立った記事になることを戒めるためです.私自身も長谷川豊フリーアナウンサー石原慎太郎東京都知事の言動には不快感/怒りを禁じえません.

相模原事件に関連した新聞記事はできる限り集めようとしています.Sの冥福を祈るためにも.ただ.厳しく的確な感覚を持っていた彼女が,何故か石原前東京都知事に対しては思ったほど厳しくありませんでした.文学者として認めていたのかとも思っていましたが,〈石原前都知事のパラドックスとまで書かれてしまう彼の「正直さ?」を見ていたのかとも思います.大切なことは「内なる差別意識に向き合い排除し続ける」こと.そのために厳しく向き合う相手は他にいると考えていたのかもしれません.

ただ,社会的な影響力を考えると,本中島時評のようにキッチリした論が公にされる必要性は言うまでもありません.