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新聞より 実名報道の意義 問い続ける意義;相模原市の障害者殺傷事件では、神奈川県警が「遺族の希望」を理由に犠牲者全員の名前を匿名で発表しました。---毎日新聞2016年10月18日 東京朝刊

 19人が刺殺され、27人が重軽傷を負った相模原市の障害者殺傷事件では、神奈川県警が「遺族の希望」を理由に犠牲者全員の名前を匿名で発表しました。遺族全員が匿名発表を希望したことや警察に実名・匿名発表の判断が委ねられている実態を踏まえ、新聞の実名報道はどうあるべきかについて、災害写真報道のあり方も併せ「開かれた新聞委員会」で議論してもらいました。

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相模原殺傷事件

公表望む被害者もいる

 大坪信剛社会部長 相模原市の殺傷事件で神奈川県警は、被害者全員について「A子さん19歳」「S男さん43歳」と匿名表記で発表しました。「遺族が実名公表を望んでいない」との理由からです。このため、記者クラブから県警に「実名発表が原則であることを再認識してほしい」と申し入れをしました。

 実名発表がなかったことで被害者の特定は困難を極めました。取材班は亡くなった方19人のうち十数人の名前と住所を割り出して取材に当たり、その経過は事件から1カ月の8月26日付紙面に掲載しました。ただ、取材に応じた遺族すべて、匿名が条件でした。

 毎日新聞実名報道を原則にしています。とはいえ、遺族から「家族に障害者がいることや施設にいることを近所に隠してきた」などの話を聞き、障害者差別の実態を知れば知るほど、現場の記者は実名、匿名のどちらがいいのか悩みながら取材をしています。こうした葛藤を、9月14日付の「記者の目」で伝えました。

 一方で、この事件に限らず遺族や被害者に取材陣が殺到する「メディアスクラム」が問題になります。節度ある取材を心掛けなくてはと自戒しています。

 懸念材料は、2005年の個人情報保護法=1=施行以来、公的機関で実名公表に消極的な姿勢が強まっていることです。7月のバングラデシュの人質テロ事件、13年のアルジェリア人質事件で、政府が犠牲者の氏名を公表したのは、遺体が帰国してからでした。昨年9月の関東・東北豪雨では、茨城県常総市が氏名を公表しないまま「行方不明者15人」と発表したため、警察や消防が実際は無事な人の捜索を続けるという事態が生じました。

池上彰委員 神奈川県警の「遺族は実名発表を望んでいない」という発表は本当だろうか。「実名を発表しますか、匿名にしますか」と問われれば、多くの人は匿名と答えるだろう。他の人が匿名なら私も匿名に、という人もいたかもしれない。だからこそメディアは、一人一人に実名、匿名の意向を確認しながら取材する努力を続けるべきだ。「障害者の遺族は実名公表をいやがる」などとは絶対思ってはいけない。私が取材したことのある知的障害者の子供を持つ親も、「子供が生きた証しを実名で報じてほしいと願う親は大勢いる」とはっきり語っていた。

 一方で、公表することで周囲からさまざまな目で見られるのがいやだと思う人がいるのも社会の現実だ。だから大原則は実名報道だが、例外的に匿名もある、でいい。私自身、取材者として、実名・匿名のはざまで立ちすくんだことがある。

 常総市のケースは、実名を公表していれば、警察も消防もムダな仕事をせずにすんだ。個人情報保護法施行後、極端な運用が起きていることを憂慮する。

 米国の場合、一般的にはまず遺族に連絡した後に実名を発表する。遺体が帰国してから一律に発表する日本とは違う。海外で多くの日本人が学び働く時代、知人の安否を知りたい人も多い。少しでも早く伝えることは報道機関の使命だ。

 荻上チキ委員 原則実名のスタンスは、とても重要だ。一方で性的暴行事件などでは、メディアの判断で匿名にすることも大切だと思う。

 相模原の事件は、優生思想の持ち主が障害者差別を暴力によって実行した。被害者やその周辺の人々の声を伝えなければ、暴力のセンセーショナルな面だけがクローズアップされる。障害者への偏見があるばかりに、実名を公表したがらない問題も浮き彫りになった。

 紙面では、「相模原殺傷 わたしの視点」という随時連載で、優生思想や措置入院にこだわる問題点などを専門家が次々に指摘していた。報道によって差別のない社会をつくるという作り手の意志が感じられた。

 一方、ネット空間では、「ネット名寄せ」とも呼ぶべき問題も持ち上がっている。報道された被害者の名前をもとに、フェイスブックツイッターなどでの過去の発信が名寄せされ、「こういうヤツなら死んでもいい」といったバッシング(非難)で盛り上がることがある。報道機関がそれにどこまで責任をもつかは難しい問題だが、ネット名寄せによる2次被害がより起こりやすい社会になっていることは踏まえておいたほうがいい。

差別なき世界どうつくる

 鈴木秀美委員 報道は原則実名、例外的に匿名であるべきだと思う。障害者を差別する社会のありようが、遺族に「匿名」を選ばせている。今年4月に障害者差別解消法が施行されたことも踏まえ、新聞社として差別をなくすため何ができるか、さらに突っ込んで考えてほしい。

 05年12月に犯罪被害者等基本計画が閣議決定されて以来、警察が実名発表か匿名発表かを決める仕組みが出来上がった。当時、新聞社はこぞって批判し、私も論文で批判したが、匿名化の流れはますます強まっている。流れを食い止めるには、メディアがしっかり取材し、遺族の意向も勘案して実名か匿名かをそのつど判断していくことが重要だ。そうやって国民の信頼を高め、当局に実名発表を訴え、仕組みを変えてほしい。

 05年4月の個人情報保護法施行直後に起きたJR福知山線脱線事故(同4月25日)でも、保護法をたてに犠牲者や負傷者の名前が提供されない混乱が一部であった。報道機関への実名発表は、保護法違反にならないにもかかわらず理解が広がっていない。個人情報は、保護と活用のバランスの問題だ。安否確認が急がれる局面で、個人情報を過剰に保護するマイナス面をもっとしっかり訴えていく必要がある。

 磯崎由美地方部長 犯罪被害者等基本計画に盛り込まれた、警察に実名か匿名かを委ねる項目については、新聞協会や民放連が削除の申し入れをしましたが、都道府県警で匿名化が進んでいます。性犯罪に限らず被害者名の大半を匿名で出す県警もあります。軽微な事件や軽傷の交通事故、未成年者が被害者の交通事故は匿名とするなど、県警ごとにさまざまなルールができています。

 大坪社会部長 静岡県警は原則として実名で発表しますが、場合によっては「遺族は匿名希望」と付記しています。

 磯崎地方部長 栃木県警もそうです。基本的には実名にして、広報文に「被害者が匿名を強く希望」などと書かれ、報道機関に判断を委ねています。

 池上委員 その場合毎日新聞はどうしているのか。

 磯崎地方部長 ケース・バイ・ケースで判断します。

 池上委員 匿名で報道したこともあるのか。

 大坪社会部長 交通事故の死亡者は、各県警の方針がどうであれ実名が原則です。ただ、母親が車庫から車を出すとき過失で自分の子どもをひいてしまった場合など匿名にしたケースもあります。

 鈴木委員 ドイツのメディア界でも、実名・匿名が議論になっている。ドイツでは、一般事件では容疑者のファーストネームは載せ、名字は頭文字1字で報道する。重大事件ではフルネームで報道することもある。精神疾患が疑われる副操縦士が故意に飛行機を墜落させたとされる航空機墜落事故で、副操縦士の顔写真と実名を報道した新聞社があって議論になった。

 小倉孝保外信部長 海外の報道基準を調べてみるとバラバラです。各国の歴史や文化と密接に結びついているようです。ドイツでは被害者については原則として名前を掲載せず、容疑者は頭文字1文字だけ書くのが通例です。ただし被害者や遺族が、実名掲載を望んだ場合は掲載します。

 米国は、池上委員の指摘どおり地元警察が遺族に連絡してから名前を公表します。事件は「公の記録」であり、遺族に許可を取る必要はないという考え方です。英国も実名が原則です。フランスも基本は実名報道ですが、テロ事件の場合、容疑者が英雄視されるのを防ぐため容疑者名を匿名にするメディアもあります。

 荻上委員 そう思う。実名報道に端を発した「ネット名寄せ」で今後大きな2次被害が出れば、個人情報保護を強化する新たな立法化の動きやメディア側の萎縮が強まる可能性がある。

 メディアは被害者や遺族の理解が得られる取材をすることがますます重要になっている。なぜ実名報道が重要なのかについてしっかりした考えを構築しなくてはいけない。

 砂間裕之編集編成局次長 相模原事件では一人一人の遺族に弁護士がつき、1回目の取材では玄関先で話を聞かせてもらえたのに、2度目の訪問では固く口を閉ざされることも多くありました。それでも毎日新聞は他紙より踏み込んで被害者の思いを書けたと思っていますが、全体としては今回、メディアが実名報道をあきらめた部分もあったように思います。

 池上委員 かつて性的暴行事件を取材したとき、ある新聞は性的暴行は伏せて被害者を実名にし、別の新聞は被害者名を匿名にしたうえで性的暴行の事実は書いたことがあった。両紙を読み比べればすべて分かってしまう。非常に悩んだ記憶がある。

 小松浩主筆 メディアがバラバラにルールをつくっても意味がないでしょう。会社の垣根を越えて議論し、問題意識を共有していかなければならない時代だと思います。

 松木健編集編成局長 ネット空間でそれが共有されるでしょうか。

 荻上委員 新聞や放送といったマスメディアでは共有されるだろうが、週刊誌などは抜け駆けをすることに存在価値を認めているので容易ではないだろう。結局、社会的な民度が問われている問題だ。一紙一紙でできることは限られるが、実名報道の意義やネットリンチの問題点などを折に触れて報じていく。同時にネット上で被害者の実名をさらした人の書き込みはいったん閲覧中止にするような取り組みをネットメディアに求めていくことも必要ではないか。

 鈴木委員 ドイツは活字メディアの自主規制機関があり、統一した報道基準(プレスコード)を設けている。これには60年の歴史があり、違反した場合、最も厳しい制裁として「けん責を受けた」と自社の紙面に載せる義務がある。自主規制機関は、航空機墜落事故で副操縦士の実名や写真、精神疾患を報じたことは匿名報道原則の例外と認めたが、家族や元恋人についての踏み込んだ報道はプレスコード違反だと判断した。

 大坪社会部長 警察の匿名発表を許容すると、警察や行政機関で不正や不祥事がおきた場合、隠すおそれがあり、公権力への監視機能が働きません。

 荻上委員 実名報道には、公権力の監視のほか、市民のかわりに現場に行き正確な情報をつかむ、被害者の生きた証しを残すなどさまざまな機能がある。そうした機能をしっかり考えてほしい。

熊本地震

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■総括

共生社会へ、役割認識 主筆・小松浩

 報道にあたっては実名こそ事実の核心であるとの原則を踏まえた上で、事件・事故を社会で共有する大切さと、当事者の痛みのバランスを考えることが求められます。我々はドイツのメディアとは考えを異にしますが、かといって米国や英国のようには割り切れません。この問題を考えることは社会のありようを考えることにつながります。相模原事件では実名・匿名の問題だけでなく、障害者と健常者が共に生きる社会を目指して報道していくことの重要性を改めて認識しました。

池上彰委員 ジャーナリスト・東京工業大特命教授, 荻上チキ委員 評論家・ウェブサイト「シノドス」編集長, 鈴木秀美委員 慶応大メディア・コミュニケーション研究所教授